第二章 Scene2 イリスの「善意の怪物」
エリーゼ姉様の亡き母の妹イリスと向き合うとき、私はいつも少しだけ息を止めてしまう。
それは、嫌いだからでも、怖いからでもない。
むしろ逆で――
彼女は、誰よりも優しくて、誰よりも“正しい”からだ。
「マリアナ様。少しだけ、お話してもよろしいでしょうか?」
柔らかな笑み。
静かな声。
相手の心に触れる前に、必ずノックをしてくるような遠慮。
でも――そのノックは、必ず扉を開けてしまう。
「最近、エリーゼのこと……ずっと心にお抱えになっているでしょう?」
その言葉に、胸の奥をなぞられた気がした。
当たり前の気遣いの言葉。
ありふれた優しさ。
でも、それは“的確すぎる”のだ。
「……まあ、ね」
誤魔化すように微笑むと、イリスは優しく首を振る。
「こんなに心を痛めていただいて、エリーゼの母、わたしの姉も遠くで涙を流しておいででしょう。
でも無理なさらなくてよろしいのですよ。
マリアナ様は、とても強くてまっすぐなお方ですから“家族のため”と、いつもご自分を後回しにしてしまわれる」
――どうして。
どうして、そこまで言い切れるの。
私はそんなに分かりやすい人間だろうか。
「お父様のことも、婚約のことも……少しずつ、重なってしまっていますわよね」
胸の奥が、どくん、と鳴った。
たしかに、それは事実だ。
でも、それは胸の中の整理されていない感情で――
まだ、誰にも見せていない場所のものだった。
イリスは一歩、近づく。
近すぎず、遠すぎず。
“安心する距離”に、正確に立つ。
「そんなときは、どうか私を頼ってくださいませ。
私はお嬢様の味方ですわ」
“味方”
その言葉は甘かった。
それを疑う理由は、どこにもない。
イリスは家族に献身的で、いつも笑っていて、誰かのために動いていて。
それなのに――
私のどこかが、静かに警鐘を鳴らす。
違う。
違うのよ。
この人は――
“支える”と言いながら、“絡め取って”いる。
優しさで包んで、
親切で寄り添って、心配する言葉で相手の弱い場所に触れて、
そして――
そこを離さない。
気づかれないように、痛くないように、でも確実に、握ってくる。
「……ありがとう。イリス」
笑顔を返す。返せてしまう自分が、少し嫌だった。
イリスはほんの少しだけ目を伏せ、嬉しそうに微笑う。
「いいえ。
“伯爵家のために”ではなく――
“あなたのために”ですわ、マリアナ様」
誰が聞いても善意にしか聞こえない言葉。
きっと、ほとんどの人は、この優しさに救われる。
でも私は、悟る。
この人は“人を救っている”のではない。
“人の心を掌の上に置いて、管理している”。
その笑顔で。
その優しさで。
何一つ傷つけないまま。
だからこそ、誰も気づかない。
「またエリーゼのお部屋に行かれるのですか?
……でしたら、どうか短い時間で。
最近は少し刺激でお疲れになってしまわれるので」
そっと、笑顔で釘を刺す。
命令じゃない。
忠告でもない。
ただの“優しさ”の形をした制限。
「……ええ。わかってる」
言葉が、喉の奥で重く揺れた。
イリスは満足そうに微笑み、礼儀正しく一礼する。
「いつでも、お話しくださいね。
あなたの苦しみを、ひとりで抱え込まないで」
静かに、音もなく去っていく。
その背中を見送りながら、私は息を吐いた。
――善意の怪物。
もしそんな言葉がこの世界にあるなら、きっと、それはイリスみたいな人を指すのだと思う。
優しくて、
穏やかで、
誰も傷つけない。
だからこそ――
誰よりも強く、人の人生を握れる。
私は掌を握りしめた。
彼女は敵じゃない。
今はまだ、はっきりとそう言い切れない。
でも――
味方だなんて、もう思えなかった。




