第二章 Scene1:伯爵家の“新しい常識”
「では、本日の家政会議を始めますわ」
その宣言をしたのは、父でも執事でもなく、アイリスだった。
長いテーブルの両側に、侍女たちと使用人の代表が並んでいる。父は、いつものように上座に座っているものの、手元の書類を眺めたまま視線を上げない。
椅子の背にまっすぐ背を預け、ノートを前に置いているアイリスは、まるでこの家を動かす役目を当然のように担っている人の姿だった。
「まずは、廊下と応接室の灯りの件ですわね」
アイリスは落ち着いた声で続ける。
「最近は、お父様もお疲れで、夜遅くまで書斎の灯りがついています。それに加えて、屋敷全体の灯りが以前と同じままでは、どうしても出費がかさんでしまいますわ」
侍女たちが小さく頷く。
「ですので――
今後、夜間の常灯は三割ほど減らしましょう。
必要な場所にだけ灯りを集め、他は“節度ある静けさ”を保ちたいと思います」
“節度ある静けさ”
それは、なんともきれいな言い方だった。
「ただ暗くする」ではなく、「家の品位を守りながら倹約する」ように聞こえる。
実際、そうなのかもしれない。
けれど私は、あの暖かかった廊下の灯りが、“節度”という言葉で薄められていくのを見ている気分だった。
「異論のある方はいらして?」
誰も、口を開かない。
一瞬、隣の侍女が視線を上げかけて――すぐに伏せた。
「……かしこまりました、アイリスお嬢様」
執事が、ほんのわずかに言いよどんでからそう告げる。“伯爵様”ではなく、“アイリスお嬢様”に向けられた了承。
胸の奥が、ぴくりと動いた。
アイリスは満足そうに頷くと、次の紙をめくった。
「次に、厨房と侍女の動きについてですわ。最近、エリーゼお姉様のご体調がすぐれないこともあり、皆さまもつい気遣いから、お部屋に出入りなさる回数が増えておられます」
「それは……申し訳ございません」
年配の侍女が、小さく頭を下げた。
「いえ、責めているわけではありませんの。ただ、あまり頻繁に人が出入りすると、かえってご本人の休息を妨げてしまうことがありますでしょ」
柔らかな口調。
心配しているように聞こえる言葉。
「ですので、今後は――
エリーゼ様のお部屋に伺う回数を、一日三度までに制限しましょう。
朝・昼・夜。
そのほかの時間は、よほどの急用がない限り、静かにお休みいただく方針で」
「……かしこまりました」
また頷きが広がる。
「もちろん、マリアナがいらっしゃるのは別ですわ。
ご家族ですもの。でも、あまりご負担をかけないよう――できれば、長居はお控えくださいませ」
そこでアイリスの視線が、ふっと私に向いた。
穏やかな笑み。
気遣うような目。
それなのに、その一言は“姉の部屋にいる時間を減らしなさい”という命令でもあった。
「……そう、ですね」
それ以外の返事が浮かばなかった。
アイリスは軽く微笑み、また紙に視線を落とす。
「では、最後に伯爵様より承っている件について。
王家と侯爵家とのお付き合いもございますので、今後、応接室と正面玄関のしつらえを、もう少し“公的な場”にふさわしいものへ整えたいと考えております」
「公的な場……でございますか?」
「ええ。この家は、“ただの家族の家”ではなく、“伯爵家”ですもの。
ですから――
飾り棚の写真や、小物類は一度すべて整理して、残すものと奥にしまうものを分けたいのです」
一瞬、心臓が強く打った。
飾り棚。
あの、昔の写真たち。
母が歌っている写真。
父がまだ疲れていない顔で笑っている写真。
姉と私が手を繋いでいる写真。
「それは……全部、どこかにしまってしまうの?」
思わず、言葉が出た。
アイリスは少しだけ首を傾げて、にこりと笑う。
「全部ではありませんわ。“今の伯爵家にふさわしいもの”だけを残します。残りは、大切に保管いたします。
もちろん粗末に扱うわけではありませんから安心してくださいな」
“今の伯爵家にふさわしいもの”
――つまり、“ふさわしくない過去”は隠される。
私は父を見る。
父は少しだけ目を細め、書類の山の向こうからぽつりと言った。
「……そうだな。アイリスの案で進めよう」
その言葉は、決裁だった。
「かしこまりました、伯爵様」
執事が頭を下げる。侍女たちも、次々と同じように頭を垂れる。
会議は、そのまま何事もなく終わっていった。
誰も大声を出さない。
誰も否定しない。
誰も怒らない。
ただ――
この家の“当たり前”が、少しずつ、静かに書き換えられていく。
廊下の灯りが減る。
姉の部屋へ行く回数が決められる。
写真が片づけられる。
「家族の家」は、「伯爵家の施設」に変わっていく。
すべては“効率”と“体裁”と“家のため”。
私は自分の膝の上で両手を組み、
爪が食い込むのを感じながら、
ただ黙ってその様子を見ていた。
――私の知らない“正しさ”で、この家は動いていく。
それが、この伯爵家の“新しい常識”なのだと。
誰も疑わない。
誰も声を上げない。
そうしているうちに、かつての常識は、“古いもの”として消えていく。
あたたかかった家族の記憶が、「ふさわしくないもの」として棚の奥にしまわれていくように。
胸の奥で、何かがぎゅっと縮んだ。
でもこの時の私は、まだ言えなかった。
――おかしい、と。
そう思ってしまう自分の方が、
「この家の空気を読めない子ども」に見えてしまいそうで。
会議が終わると、アイリスはいつもの笑顔で皆を見渡した。
「皆さま、ありがとうございます。
これからも“伯爵家のために”、どうかお力を貸してくださいね」
その言葉に、素直な返事が重なる。
「はい、アイリスお嬢様」
――こうして、伯爵家は今日もまた、私の知らない「正しさ」を増やしていくのだ。




