第一章 scene7途絶えた母との歌
ふいに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
――歌だ。
昔、この屋敷には歌があった。
私はゆっくり目を閉じる。
思い出したくて、でも思い出すたびに苦しくなる記憶。
それは、何でもない夜だった。
特別な日でも、祝いの席でもない。
ただ少し風の強い夜で、窓ガラスがカタカタと鳴るのが怖くて、私が眠れず、母の部屋へ行った日。
「眠れないの?」
母は笑って、私を抱き寄せた。
その腕は温かくて、胸に耳を預けると、鼓動の音がやさしく響いた。
そして――
母は歌い始めた。
静かなメロディ。
どこか懐かしい旋律。
子守歌でも、聖歌でもない。
でも確かに「母の声」でできた、世界で一番安心できる音。
私は目を閉じて、その声に包まれながら眠った。
“この声がある限り、私は大丈夫。”
幼い私は、本当にそう信じていた。
けれど――
その歌は、ある日を境に途絶えた。
理由は、曖昧なままだ。
母は歌わなくなった。
歌おうとしなくなった。
声はまだ出る。
笑顔もある。
でも、“歌”だけが消えた。
使用人は言った。
「お疲れなのよ」
「年を重ねた女性は、いろいろ変わるものよ」
父は言った。
「今は家のことで手一杯なんだ。仕方がない」
イリスは言った。
「無理をさせない方がいいですわ」
――そして誰も、深く踏み込まなかった。
気づけば、それが「当たり前」になっていた。
歌のない夜。
静かすぎる屋敷。
音の消えた居場所。
私はそっと目を開ける。
今、この屋敷には歌がない。
笑い声の代わりに溜め息があって、
未来の希望の代わりに、“耐えるための言葉”が並んでいる。
あの日、途絶えた歌は――
きっと、ここで最初に壊れた「温度」だった。
「……お母様」
声にならない呟きが、喉の奥で溶けた。
思い出すたび、
胸の奥に小さな痛みが走る。
でも、その痛みが、唯一の証でもある。
私は知っている。
この家には、本当は温かい音があった。
だから――
取り戻したい。
ただ、昔を懐かしむためじゃない。
誰かが無理に笑って誤魔化す家じゃなく、
優しさで縛る家でもなく、
“本当の意味で呼吸できる場所”に、戻したい。
小さな灯りが、胸の奥でまた揺れた。
歌のない夜は、まだ続いている。
でも――
きっといつか、この屋敷にまた音が戻るように。
私は目を閉じ、静かに息を吸った。
それだけで、ほんの少しだけ。
闇が遠くなった気がした。




