第一章 Scene7 マリアナの孤独
夜になった伯爵家は、静かだ。
昔、この静けさは心地よかった。
一日が穏やかに終わっていく音――
そう思える温度が、確かにあった。
でも今は違う。
静けさはただの“空白”で、そこに満ちるのは、言葉にできない不安だけ。
窓から外を見下ろすと、庭園はランプに照らされて色を失い、遠くに見える灯りだけが、世界がまだ動いていることを教えてくれていた。
父は、書斎で灯りに縛られている。
政治と王家の影と、終わらない“責任”の中で。
姉は、眠っている。
薬に沈められた眠りの底で、きっと夢さえ見られない。
アイリスは――動いている。
静かに、丁寧に、“家のため”という言葉で、
みんなの意志を囲っていく。
アックスは、迷いながら、それでも「正しさ」の方へ歩いていく。
そして私は――ただ立っている。
この家の娘として。
アックスの婚約者として。
家族の一員として。
どれも間違いじゃないけれど、そのどれもが“私自身”じゃない気がして。
胸の奥に、小さな灯りを抱えている気がした。
たいしたものじゃない。
他の誰かが見たら、簡単に吹き消してしまいそうな、頼りない灯火。
でも――それしかない。
「……寒いな」
思わず、声が漏れた。
本当に寒いのか、それとも心の話なのか、自分でも分からない。
この家は、まだ壊れていない。
父は倒れていない。母は歌わないけどそこにいる。姉もまだ息をして笑ってくれる。
婚約も破棄されていない。
“悲劇”なんて、まだ起きていない。
でも――
だからこそ怖い。
壊れてしまえば、「仕方ない」で諦められる。
でも、壊れる前は、
「まだ大丈夫」
「そのうち良くなる」
「信じていればいい」
そんな言葉で、自分をごまかしてしまう。
そうやって、
ゆっくり、
静かに、
取り返しがつかなくなる。
私は窓辺にもたれ、
掌を見つめた。
この手で、何ができるんだろう。
魔法はない。
奇跡も、奇跡みたいな才能もない。
あるのは――
どうしようもなく現実的な“違和感”だけ。
でも、それでも。
見て見ぬふりだけはしたくない。
逃げるように目を閉じる。
瞼の裏で、一瞬だけ、あの“赤い光景”がよみがえった。
婚約破棄。
ざわめく人々。
切り捨てられる自分。
――嫌だ。
小さく、心の奥で呟く。
この灯りだけは、消したくない。
そう思った瞬間、
ほんの少しだけ呼吸が軽くなった気がした。
きっと私は、
もう「何も知らないまま」ではいられない。
いつからだろう。
この家が、私の安らぎではなくなったのは。
その問いだけを胸に抱えながら、私は静かな夜を見つめ続けた。




