第一章 Scene6 かつての華やぎのころ
石畳の上で風が揺れる――
その風景の上に、ふっと昔の記憶が重なった。
まだ、この屋敷に笑い声があった頃のこと。
庭の同じ場所で、アックスは少しぎこちなく立っていた。
「……その、突然で申し訳ない。
正式な婚約の挨拶は改めて行われるが……先に伝えておきたくて」
いつも落ち着いている彼が、珍しく視線を落とし、手に持った箱を握りしめていた。
私はまだ幼くて、婚約という言葉の重さも、“家の役割”というものも、ちゃんとは理解していなかった。
ただ――
「マリアナ嬢。
私は、あなたをわたしの出世のための道具として迎えるつもりはない」
そう言われた時だけは、胸の奥がじんと熱くなった。
アックスは、まっすぐだった。
「君の笑う顔が、素敵だと思った。
……ああ、変な言い方だな。だが、私は“安心”したんだ」
耳の後ろをかく癖。
少し目を逸らして、すぐ戻ってくる視線。
その不器用さが、優しかった。
「難しい言葉は言えないが、私は、君の隣で支える夫でいたい。できる限りの形で」
そう言って差し出されたのは、派手すぎない、繊細な銀細工のブレスレット。
高価な宝石ではなかった。
ただ、丁寧に、心を込めて選ばれたもの。
「無理に好いてくれなくてもいい。
時間がかかってもいい。
……でも、いつか胸を張って“婚約者だ”と言える関係になれたら、嬉しい」
私は――笑ってしまった。
顔が熱くなって、どうしていいか分からなくて。
「……ばか」
そう言ったら、彼は少し驚いた顔をして、そして笑った。
その日、エリーゼ姉様は拍手をしてくれた。
父は照れ隠しのように咳払いをし、アイリスも優しく微笑んでいた。
あの頃は本当に、“幸せな未来がある”と信じていたのだ。
アックスの優しさは嘘じゃなかった。
偽りじゃなかった。
――だから。
今、私の前に立つ彼の迷いも、このあと私を切り捨てる決断も。
全部が、ただの“裏切り”で片付かないのが苦しい。
「君を幸せにできる未来を選びたい」
そう言ってくれた人が――
“家の幸せ”を優先する選択をするのだから。
過去の温度が胸の奥に残ったまま、今の冷たい空気が重ねられる。
私は小さく息を吐いた。
あの日のアックスは、嘘じゃなかった。
でも――
未来のアックスもまた、嘘じゃない。
二つの「正しさ」の間で迷う人。
そしてその迷いの末に、彼は私を手放す。
――あの“赤い映像”の通りに。




