第一章 Scene6 アックスの揺らぎ
庭園の白い石畳を踏む音が、静かに響く。
振り向いた先に立っていたのは――婚約者のアックスだった。
背が高くて、姿勢がいい。
彼に対して感じていた印象は、「頼れる」よりも「落ち着いている」だった。
穏やかで、声を荒らげるところを見たことがない。
そんな彼を、私は婚約者として悪く思ったことは、ほとんどない。
だからこそ。
今、私を見る彼の目の揺らぎが、余計に胸に刺さるのだと思う。
「……マリアナ」
名前を呼ばれる声は、以前と同じ優しい響きなのに。
どこか、遠い。
「久しぶり。忙しかったの?」
私が笑顔を作ると、彼は少し申し訳なさそうに眉を寄せた。
「……ああ。伯爵からも相談を受けている。
最近は、屋敷も状況が変わりつつあるからな」
“伯爵”と言うときの声音は、以前より敬意が濃い。
それは家の事情に配慮してくれているのだろう。
でも同時に――
そこに「距離」が生まれているのも分かる。
「君の父上は、今が踏ん張りどころだ。王家との関係も、侯爵家とのやり取りも、難しい局面だ。……それを支える者が、必要だ」
その言い方は、まるで自分に言い聞かせているみたいだった。
「それ、アイリスから聞いたの?」
私がそう言うと、アックスは一瞬言葉を詰まらせた。
ほんの一瞬。
けれど、その沈黙が十分だった。
「……彼女は、よく見ているな」
短くそう言う。それ以上語らないところが、かえって雄弁だ。
“よく見ている”
“役に立っている”
“家のため”
――彼はもう、その言葉を疑わない。
私は問いを変える。
「ねぇ、アックス。
エリーゼ姉様が、最近弱ってるの。それでも……ただの“体質”だと思う?」
アックスは真面目な顔で私を見る。
昔と同じ。
私の言葉を軽んじない、誠実な眼差し。
だから残酷だ。
「……医師もいる。イリス殿も献身的だ。
疑う理由は――今のところ何も見当たらない」
“疑う必要はない”
そう言い切らなかった。
でも、それは優しさなんかじゃない。
ただの逃げだ。
私は言葉を失い、その沈黙に耐えかねたように、アックスが話題を変えた。
「……マリアナ、君は強い。心配しすぎないでくれ」
“強いから”
“しっかりしているから”
そう言われるたび、
私は堅い檻の中に押し込まれていく気がする。
彼は優しい。
本当に。
でも。
優しさだけで守れるほど世界は甘くないし、
優しさだけで戦えるほど私は鈍感ではいられない。
アックスの目が、一瞬だけ遠くを見るように揺れた。
迷っている。
悩んでいる。
でも、自分の立つ場所から降りるつもりはない。
その迷いの先にある未来が――
私を切り捨てるものだということを。
私は、知ってしまっている。
あの“赤い映像”の中で。
「アックス」
名前を呼ぶと、
彼は心配そうに振り向いた。
「……なにかあったら、ちゃんと話すから」
私は微笑んだ。
――嘘だ。
でも今は、それでいい。
アックスは安堵したように息を吐く。
その安心が、
どうしようもなく悲しかった。
彼はこの先、私を守れない。
いいえ――
守らない選択をする。
“家のために”
“正しさのために”
“皆の未来のために”
それを盾にして。
私は静かに目を伏せた。
揺らいでいるのに、それでも抗えない彼の優しさは――
きっと、私を傷つける。
――その未来を、私はもう知っている。




