第一章 Scene5 アイリスとイリス、そして医師
曲がり角を曲がり、私は廊下の向こうに消える。
――その直後。
足音が完全に遠ざかるのを確認してから、姉エリーゼの部屋の扉の前に立つ影が二つあった。
ひとりはアイリス。
もうひとりは、その背後から静かに歩み寄ってきた女性――イリス。
「……アイリス」
イリスは柔らかく笑った。
「良い言葉を選んだわ。“心配はいらない”は、人の心を縛る魔法みたいなものよ」
アイリスは静かに息を吐く。
「本当に心配しているのですわ。エリーゼ様は……あまりに優しすぎますから」
「優しい人ほど、壊れやすいのよ」
イリスは何でもないことのように言う。
ちょうどその時、廊下の反対側から医師が戻ってきた。
イリスは微笑みながら声をかける。
「先生、お疲れさまでした、いかがでしたか?」
医師はわずかに肩を落とし、軽く頭を下げた。
「問題はありません。
……少なくとも、“診断としては”。」
アイリスが一瞬だけ目を伏せる。
イリスは静かに一歩近づいた。
「先生、“診断としては”ではなくて、“診断は、そう言うべき”――でしょう?」
優しい声。
けれど、その奥にあるものは鋭い。
医師はしばし黙り、唇を結ぶ。
「……私は、患者の状態を安定させるために最善を尽くしています。伯爵様のご意向もありますし……」
「ええ、そうですわね。
“伯爵のため”。
“家のため”。」
イリスはその言葉を、慈しむように繰り返した。
「そして何より――
あの子自身が“弱くありたい”と望んでいる」
医師は顔を上げる。
「弱く……ありたい、ですか?」
イリスは静かに笑う。
「優しい人はね、
“強く立ち続ける自分”より――
“守られる自分”の方が、楽なときがあるのよ」
アイリスが小さく息を飲んだ。
イリスは振り返らないまま、娘に問いかける。
「そうでしょう? アイリス」
「……はい。誰かを傷つけるくらいなら、
自分が壊れた方がいいと考える人は……確かに、います」
イリスは満足そうに頷いた。
「だから、私たちは“支えてあげている”だけ。
無理をさせないように。
考えすぎないように。
眠っていれば、余計な痛みを感じずに済むでしょう?」
医師は拳を握りしめた。
「……それは、本当に“治療”と呼べるのですかな」
イリスはほんの少しだけ、首を傾げる。
「先生。
あなたは昔、こう仰っていましたわね?
“患者の望みに寄り添うのが医師の役目だ”と」
医師の表情が強張る。
「今、あなたは寄り添っているのです。
あの子が――“戦わない選択”をし続けられるように」
優しい声で。
優しい理屈で。
逃げ道のようでいて、戻れなくする道筋。
医師は、深く深く息を吐いた。
「……伯爵様のお言葉も、承っています。
……私は、私に与えられた役目を果たすだけです」
そう言って静かに去っていく。
その背中を見送りながら、アイリスがぽつりとこぼした。
「……お母様。これは本当に“正しい”のですか?」
イリスは笑う。
いつもの、完璧で慈愛深い笑みで。
「“家が壊れないこと”ほど、正しいものはないでしょう?」
アイリスは目を閉じ、そしてまた微笑みを作り直した。
伯爵家の“理想の娘”の顔で。




