第一章 Scene5 アイリスの“完璧”
姉エリーゼの部屋を出たとき、廊下の向こうから軽やかな靴音が響いた。
振り返る前に、柔らかな声が届く。
「――あら、マリアナ」
振り返ると、そこにもうひとりの姉のアイリスがいた。
整った姿勢。乱れのない髪。さりげなく品のあるドレス。そして、どんな場面でも崩れない微笑。
完璧な伯爵令嬢。
けれど彼女は、血の繋がらない“養女”だ。
「お姉様のところにいらしたのですね。お加減はいかがでしたか?」
穏やかな声。心配しているように聞こえる声。
しかし、その問いには――
答える前から結論を決めている響きが混ざっていた。
「……相変わらず。少し眠そうだった」
私がそう答えると、アイリスは慈悲深い娘のように目を細めた。
「そう……でも安心してください。医師もきちんと診ていますし、イリス様も、伯爵様も、毎日気を配っておられますわ」
“だから、心配は必要ない”そうやんわりと告げる声。
まるで、私の不安を「間違った感情」と言われているみたいだった。
「それに――」
彼女はそっと、姉の部屋の扉を一瞥した。
「エリーゼ様は、とても優しい方でしょう?
あの方は、自分がつらくても誰にも迷惑をかけたくない方ですもの」
まるでそれが「称賛」であるかのように言う。
けれどそれは同時に、
“その優しさに踏み込みすぎてはならない”
“負担を感じさせてはいけない”
そんな枷でもあった。
完璧な言葉。
完璧な理屈。
完璧な微笑。
――だから、反論しづらい。
それをした瞬間、
私が「思慮の足りない娘」になるみたいで。
「それよりも、マリアナ」
アイリスは一歩近づき、まるで姉のような口調で言った。
「あなたも、体調を崩されませんように。最近は屋敷の空気も落ち着きませんし……。あなたがこの家にとっては大事な存在なのですから。わたくしよりも」
一瞬だけ、声が低くなる。悪意ではない。けれど、妙に刺さる沈み方。
「“家のため”に、あなたが、いえ私たちが支えなければ」
その言葉は優しいのに――
なぜか息苦しかった。
家のため。
伯爵のため。
皆のため。
その言葉を盾にすれば、何だって正しいことにできる。
私は何も言えずにいた。
するとアイリスは、ふっと笑みを柔らかく戻した。
「……でも、あなたがエリーゼ様のそばにいることはきっと励みになりますわ。あなたは、あのお方の光ですもの」
否定する理由がない。
責められてもいない。
ただ、やさしい。
――なのに胸の奥が冷える。
「ありがとうございます」
形式通りに礼をすると、アイリスは静かに会釈した。
そして軽やかに去っていく。
すれ違った瞬間。
香水の香りと一緒に、妙な感覚が残る。
善意に包まれているのに、心だけが締め付けられる。
――あれは、嫌いと言い切れない悪意だ。
優しさの顔をした支配。
私は、背中を小さく震わせながら息を吐いた。
この屋敷は、優しさで縛られている。
そしてその中心にいるのは――
やっぱり、あの完璧な少女だった。




