第一章 プロローグ
冬。雨が降っていた。
叩きつけるようでも、静かな霧雨でもない。
ただ、冷たく空気を削るみたいな、温度だけを奪っていく雨。
赤いランプが濡れた道路の上で滲んだ。
誰かの叫び声。
タイヤが滑る音。
金属がぶつかる乾いた衝突音。
そして、世界がひっくり返るような衝撃。
息が、うまく吸えない。
胸が押しつぶされたみたいに苦しいのに、身体は動いてくれない。腕に当たるアスファルトの冷たさと、雨の感触だけがやけに鮮明だった。
音が遠ざかる。
なのに、耳鳴りだけがひどく近い。
「大丈夫ですか!?」
「救急車!救急車を!」
誰かが近くで叫んでいる声。
でもそれは、海の向こうで鳴る鐘みたいに、現実感がない。
視界の端で誰かの影が揺れた。
光が滲み、色が崩れ、世界がゆっくりと遠ざかっていく。
――はずだったのに。
次の瞬間、私は別の場所に立っていた。
眩しいシャンデリア。
磨かれた床。
香水と笑い声と拍手。
祝宴のざわめきが、波のように押し寄せては引いていく。
これは現実じゃない。
でも夢ほど曖昧じゃない。
どこかで見たことがあるようで、でも絶対に体験したことはない景色。
私の前に立つ人が泣いていた。
迷った末に、それでも“選んだ人間”の顔で、静かに息を吸う。
「――君とは、ここで終わりにしたい。」
その一言だけが、やけに鮮明に、胸の奥を突いた。
ざわめく視線。
同情。
好奇の目。
「家のため」「未来のため」「皆の幸せのため」
そんな“正しい言葉”だけで飾られた拒絶。
――ああ。
……まただ。
また“選ばれる側”じゃなくて、“切り捨てられる側”。
雨音と拍手の音が重なる。
救急車のサイレンと、ざわめく人々の声が溶けていく。
これは幻覚?
それとも――“用意された未来”の断片?
まるで線路の上に固定された列車みたいに、決められた結末へ向かって走らされる人生。
私はただ、それに乗せられているだけ。
意思も、選択も、奪われたまま。
視界がまた歪む。
世界が暗くなる。
現実の痛みも、雨の冷たさも、遠ざかっていく。
最後に落ちていく意識の底で、
私は、確かに思った。
――ああ、いやだ。
このまま、消えるなんて。
そして、世界は完全に暗転した。




