『第十八話・2 : ザッハトルテの瞳』
視界を覆ったのは、焼きたてのパイの香り。
シナモンが鼻を刺し、ショコラが舌の奥をざらつかせ、果実の酸が甘さを追い立てる。
気づけばリリアたちは、石畳の通りに立っていた。
だがそこは、さっきまでの市場とはまるで違う。
両側に並ぶのは、延々と連なるスイーツ専門店。
ショーケースには宝石のようなケーキやタルトがぎっしりと並び、
空にさえ綿菓子のような雲が浮かんでいた。
「……うわ……なんだこの天国」
リリアの喉から、思わず本音が漏れる。
しかし。
そのケーキのデコレーションに、うっすらと刻まれている。
見慣れた禁呪の符号が、砂糖細工の模様に偽装されていた。
「……まさか……全部……?」
セラフィーの声が震える。
「そういうことか……」
リリアは口の端を引きつらせた。
(ここは……“甘味都市”そのものが、丸ごと禁呪の器……!
スイーツに釣られて来たやつを、異界に閉じ込める仕組みだ……!)
革バッグの中で、ワン太がひとつ頷くように“カクン”と手を動かした。
その仕草は――ようこそ、と言っているかのようだった。
街路の両脇に並ぶショーケースから、甘い香りが押し寄せてくる。
苺を宝石のように散らしたタルト、琥珀色のカラメルを纏ったプリン、
そして天を衝くほど高く積み上げられたミルフィーユ。
祝福に見えた甘美さは、じつは鎖のように心を締めつけていた。
(……やば……視覚と嗅覚がフルコンボで攻めてきてる……!
これ、完全に“誘惑ギミック”だろ……!
……いやでも、ザッハトルテ出てきたら……正直一口で死んでも本望……)
理性では理解しているのに、足が勝手に動いていた。
ショーケースの前に立ち、手のひらがガラスに触れる。
冷たいはずの感触はなく、代わりに心臓の鼓動に合わせて脈打つ温もりが伝わってきた。
「リリア! 駄目! “見たら食べたくなる”って、それも禁呪の一部だから!」
セラフィーが必死に叫ぶ。
だが次の瞬間、ショーケースの中のケーキが――小さく瞬きをした。
それは漆黒の艶を湛えたザッハトルテ。
チョコレートの表面は鏡のように滑らかで、天井の灯りを歪んだ月光のように映している。
だが、その艶に走る光は符号へと変わり、黒光りする表面の亀裂が、まるで呼吸する肺のように開閉した。
「……っ!? 動いた……?」
次の瞬間、黒い艶がわずかに歪み、そこに黒い瞳が覗いた。
表面に映っていたはずの灯りが飲み込まれ、リリアをまっすぐ見返す。
中央に飾られたアプリコットジャムが、とろりと溢れ落ちる。
その滴は琥珀色ではなく、熱を帯びた瞳孔のように蠢き、再び瞬いた。
(……わかってる……これは罠だ……
……でも、この香り……脳が痺れるくらい直撃して……やば……一口だけなら……!
いやいやいや、俺は勇士だぞ!? でも勇士だってケーキくらい食うだろ!?)
指先がガラスを探すように伸びた。
けれど、そこにあるはずの境界は幻のようにほどけ、
指先はそのまま黒い艶へ誘い込まれていく。
胸の奥から、甘苦い呻きがひとりでに漏れた。
その瞬間。
革バッグの中で、ワン太が勢いよく“ぱたぱた”と手を振った。
それはもう愛らしい仕草ではなかった。
必死の拒絶、断末魔の警鐘──
「喰われるぞ」と魂に叩きつけているようにしか思えなかった。
(……やべぇ……モフモフが一番冷静じゃん!!
甘党の俺がケーキに釣られてる間に、ぬいぐるみが命守ってるって……勇士の立場逆転してるだろこれ!!)




