『第十七話・3 : 甘党勇者との午後』
老婆が去ったあと、リリアはしばし足を止めていた。
胸の奥でまだざらつくように残る声。
(……なんだよ今の婆さん。市場のど真ん中でホラー仕掛けてくんじゃねぇよ……! 心臓に悪すぎるだろ!)
(……ホラー婆さんに遭遇した直後に甘い匂いかよ。ギャップで死ぬわ……)
バッグの中のワン太は、さっきから微動だにしない。
まるで「俺は何も知りません」って顔で黙り込んでいるようで、余計に不気味だった。
(おいコラ! お前が一番の原因なんじゃねーのか!? 無言でシラ切ってんじゃねぇぞ!)
ふと、通りを抜けた風が髪を揺らした。
昼の匂いに紛れて、ほんの一瞬――夜の冷たさが戻ってきた気がした。
リリアは肩をすくめ、そっと首を振る。
そして、落ち着かない空気を、無理やり振り払うように歩き出した。
次の瞬間、背後から聞き慣れた声が降ってきた。
(うわっ……! この声は……!)
「……また怪しい人に絡まれてたでしょ?」
振り返れば、セラフィーが腕を組んで仁王立ちしていた。
白い修道服に外套を羽織り、額には汗がにじんでいる。
その瞳は呆れ半分、心配半分――まるで小言を言う姉のようだ。
(お、おう……ホラー婆さんからの説教シスター。胃が休まる暇がねぇ!)
「い、いや……ちょっと道を聞かれただけだよ」
「ふーん? で、その“道”はどう答えたの?」
「……市場の奥に、たぶんスイーツ屋があるって……」
「完全に遊んでるわね」
「あなた、この街に来たばっかりでしょ!? スイーツ屋の場所なんか知ってるわけないじゃない!」
セラフィーがずかずかと近づいてくる。
リリアの籠をひょいと奪い取り、中を覗いた。
「……やっぱり。野菜より菓子パンの方が多いじゃない! これは補給じゃなくて嗜好品の山よ!」
「戦場帰りは糖分が必要なんだって」
「理由が雑すぎるわ!!」
「あなたね……ほんと、命の危機よりも糖分切れの時の方が怖い顔してるわ」
リリアは気にも留めず、肩の革バッグを軽く叩く。
中のワン太も合わせて、小さく首をかしげた。
まるで「言い訳なら俺も聞いたことあるぞ」とでも言いたげに。
その仕草が、なぜか人間の“返事”のように見えて――セラフィーは一瞬、言葉を止めた。
「ほら、こいつも甘いのが欲しいって言ってる」
「いやいや、ぬいぐるみが首をかしげてるだけでしょ!? なんで欲望を代弁させてるのよ!」
「見てよ。今“うんうん”って頷いたぞ」
「見えない! 幻覚見てるでしょあなた!!」
(……いや俺、“元から”甘党なんだよ! ケーキもパンも甘いもん大歓迎だわ! ただし“勇士リリアとモフモフ=甘党コンビ”って公認されるのだけは勘弁してくれ!!)
ちょうどそのとき、屋台の兄ちゃんが威勢よく声を張った。
「おっ、勇者さま! 今日は苺のタルト、焼きたてだぜ!」
甘い香りが風に乗って、鼻先をくすぐる。
リリアの瞳が一瞬で輝きを増す。
「ちょうどいい! 二つ包んで」
「ちょっと! なんで自然に二つ買うのよ!」
「……一つはワン太用」
「食べないでしょぬいぐるみは! ていうか私の分は!?」
「じゃあ三つ」
「最初からそう言いなさいよ!!」
焼き菓子の香りに誘われて、子どもたちが笑いながら走り抜けた。
その後ろで、猫がパン屑を狙って尾を揺らしている。
セラフィーの声が市場に響き、周囲の客や店主がどっと笑う。
屋台の兄ちゃんは肩をすくめ、「勇士さまも大変だな」と言いながら、丁寧にタルトを包んだ。
(……ん? そういえば、ワン太、こないだドーナツ食べてなかったか? 気のせい……だよな?)
そこへ薬草屋の婆さんが余計な声を飛ばす。
「勇士さま! 砂糖の取りすぎは毒だぞ!」
「勇士さまはパン党だろ! タルトに浮気すんな!」とパン屋の主人まで参戦し、
「いやいや肉こそ正義だ!」と肉屋のオヤジまで加わった。
(ちょっと待て!? なんで市場全体で俺の食生活討論会が始まってんだよ! ……てか俺ほんとに甘党だから否定できねえのが一番ツラい!!)
笑い声が通りを満たし、焼きたての匂いが風に溶けていく。
リリアは口元を緩めて袋を受け取る。
セラフィーはぷんぷんしているが、どこか楽しげでもある。
バッグの中でワン太は、得意ムーブの“ぱたぱた”に加えて、小さく“くいっ”と手を曲げた。
まるで「俺の分、忘れるなよ」とでも言いたげに。
「……はぁ。やっぱり一人にしておけないわね」
セラフィーは肩を落としつつも、しっかりリリアの隣に並んだ。
「今度は、私も一緒に行くわ。放っておいたら、スライムにやられる前に、糖分と変なトラブルで命を落としかねないんだから」
「え、いや別にそこまで心配しなくても……」
「するの! これはもう修道女としてじゃなく、友人としての決定!」
リリアは困惑しつつも、口元に小さな笑みを浮かべた。
セラフィーが隣にいるだけで、不思議と市場のざわめきが柔らかく聞こえる。
昼下がりの風が二人の間を抜け、焼きたての匂いと笑い声が通りを満たしていく。
遠くの屋根で風鈴が鳴り、午後の光がパン屑の上で金色に跳ねた。
戦の気配は、もう風に溶けて遠ざかっていた。
(……結局、俺って“パンとタルトとモフモフを愛する甘党英雄”なんだな……)
……けれど胸の奥では、あの老婆の声が、薄い棘のように沈み、風の底でひそかに疼きつづけていた。
どこか遠くで、鐘がひとつ、遅れて鳴った。




