『第十七話・2 : 焼きたての匂いと、神の夢』
通りの賑わいに混じり、リリアは籠を抱えたまま足を止めた。
野菜売りのおばちゃんが、山盛りのトマトを抱えて手を振る。
「勇者さま、おまけしとくよ! お嫁に来てくれるなら全部タダだよ!」
「ちょ、ちょっと……!」
リリアは耳まで赤くなり、慌てて首を振った。
(おいおい! 今のは公開プロポーズだぞ!? 市場の人たち全員聞いてたし!)
横から駆け寄った子供が、革バッグにぎゅっと抱きつく。
「わぁー、かわいいぬいぐるみ! おねえちゃんの子供?」
「えっ、こ、子供じゃないけど……」
困惑するリリアの肩で、ワン太が小さく、じたばたと、もがいた。
「動いた! 生きてるんだ!」
歓声が上がり、子供たちが笑顔で取り囲む。
(……ちょ、完全にマスコット枠じゃねぇか!? つか、まじ生きてねーか? こいつ)
リリアは苦笑し、軽く手を振って通り過ぎる。
通りの先で、果物屋の青年が声をかけてきた。
「勇者さま、昨日の戦い……本当にありがとうございました! これ、うちの畑で採れたリンゴです。お礼にどうぞ!」
「えっ、そんな、悪いですよ……」
そう言いながらも、差し出された赤い実を受け取る。
手のひらに伝わる温もりが、どこか懐かしく感じた。
(……なんだろ。戦利品でも勲章でもないのに、こんなに嬉しいのか)
ワン太がバッグの中で“くんくん”と鼻を鳴らす。
「ダメ。これはワン太の分じゃありません」
そう言って笑うリリアの声に、店先の人々も笑い声を返した。
(……勇者の買い出しどころか、もう街のアイドルじゃねぇか……)
──そのときだった。
笑い声が急に遠のく。
その明るさの下で、ほんの一瞬――風の温度が変わった気がした。
通りの中央で、影が一瞬“逆向き”に揺れた。
光の流れが噛み合わず、まるで世界の歯車が一枚だけ逆に回ったようだった。
陽の匂いと焼きたての香ばしさが、ひやりとした“見えない手”に触れられたように凍る。
通りのざわめきが、「膜の向こう」に押しやられたように遠のいた。
人の声も笑いも音楽も確かにそこにあるのに、背筋に走ったのは異様な静けさ。
焼きたての香りの中に、いつの間にか混じった“古い土と鉄錆の匂い”が鼻を刺す。
「……おやおや。とんでもねえもんを抱えて歩いてるじゃないか」
そのしわがれた声が耳をかすめた瞬間、空気がまるで一枚の氷になった。
振り返ると、通りの片隅。
布を吊った露店の影に、老婆が立っていた。
古びた外套に身を包み、背を丸めた姿。
深い皺に覆われた顔は、笑っているのか怒っているのか判別できない。
――ただ、その濁った瞳だけは、不自然なほど冴え冴えとしていた。
そして、まっすぐにリリアの肩の革バッグを射抜いた。
「……私に、何か用?」
リリアの声が自然と低くなる。
老婆は唇を歪め、吐き捨てるように言った。
「その袋ん中……“ただのぬいぐるみ”だと思ってるなら、大間違いだよ」
リリアの胸がわずかに跳ねる。
バッグの奥で、ワン太は――さっきまでの愛嬌が嘘のように、動きをぴたりと止めた。
止まっただけ。それだけなのに、ざわめく市場から切り離されたような寒気が走る。
(……おい!? 今止まったよな!? 余計にホラー演出にしか見えねぇだろ!!)
老婆はさらに目を細め、今度はリリア自身を見据える。
「気づいてるだろう……おまえさんのHPと防御力が、最近異常に低くなってきていることを」
「っ……!」
リリアは息を呑む。
そう、ここ数日の戦いで、刃をかすめただけでも体力がごっそり削られる感覚が確かにあった。
(……そうだ。まるで、俺のHPが丸ごとワン太に流れてるみたいに……)
老婆の声は、囁きでも怒号でもなく、鐘の音のように胸の奥に響いた。
「見せ物にするんじゃないよ……あれは、“動くもの”でも“動かされるもの”でもない。
理の外に残った“ひと欠片”さ。
時間の縫い目をくぐってきた――生まれ損ねた“神の夢”を、あんたが今、抱いて歩いてる。」
「……見失うんじゃないよ。“夢”は、ときに持ち主を選び直す」
それだけを言い残し、老婆は布の影へと溶けるように消えていった。
そこには人の気配すら残っていなかった。
まるで最初から存在しなかったかのように。
(おい待て、それ俺も知らない設定なんだけど!? 俺のHPと防御ステータスが、病弱紙装甲になってる理由がモフモフってマジ!? しかも、生まれ損ねた“神の夢”って……全く意味わからんけど、完全にラスボスのフラグじゃねぇか!!)
リリアは急いで息を整え、胸の前でセルフウィンドウを開いた。
光の枠がぽうっと浮かび、半透明の文字が並ぶ。
【HP:6/6(Max9999)】
【防禦力:─── エラー/計測不能】
【状態異常:共有(対象:ワン太)】
「……は……?」
目の前で文字がかすかに滲む。
スクロールするたび、数値がバグったように上下を繰り返す。
HPバーはほぼ消えかけており、風に吹かれたら減るレベルだった。
(……頼むからワン太に俺の防御力全振りするのやめてくれ! 今のリリアのHPバー、マジで紙切れ以下だぞ!!)
バッグの中では、当の本人──いや、本ぬいぐるみが、無邪気な顔で“てへ”みたいに小さく手を上げていた。
(……いや待て。これ……もしや、ラスボスの“相棒ルート”進行中ってやつじゃ……?)
(しかもステータス共有型の共鳴バグ……あ、詰んだ。完全に詰んだやつだこれ……!!)
リリアは思わず足元を見た。そこだけ、風が通っていなかった。
ゆっくり息を吐いた。さっきまで凍っていた空気が、ようやく動き出す。
市場のざわめきが再び戻ってきた。
焼きたての香りも、笑い声も、賑わいも。
それでも胸の奥では、老婆の声と“ちりん”という音だけが、
まだ“形”になりきれずに、鈍く響き続けていた。




