『第ニ話・2:禁忌コード999』
異様な静寂。
リリア──いや、俺はゆっくりと地に降り立った。
空中に漂っていたスキルウィンドウが、ひとひらの羽根みたいに消えていく。
(……これが……俺が作り上げた、最強の“勇者リリア”か……。さすがレベル999の、化け物だわ)
(やっぱ、これ反則だわ……。速すぎて、考えるより先に──体が勝手に動く)
敵の突進が、まるでスローモーションみたいに見えた。
音が遅れて届く。
爪が迫るより先に、視線が軌道を追い抜いていく。
時間が伸びる──いや、俺の思考が、現実そのものを置き去りにしていた。
その静止の中で、空気がひときわ冷たくなった。
──世界の“裏面”が、音もなく擦れた気がした。
呼吸の音すら、自分のものじゃないように遠のいていく。
視界の端に、赤いウィンドウがにじんだ。
まるで血のしみが広がるみたいに──画面全体へ、静かに滲んでいく。
《……警告:この存在は……正式オブジェクトではありません》
《エラー……ユニット“LILIA_999”旧バージョン。記録ナシ》
《識別……未登録“旧約コード”接続検出》
《……禁忌番号999 アクセス反応》
世界が、一瞬だけ“止まった”気がした。
音も風も消え、モニターの赤だけが脈打っている。
息を吸うのも忘れるほどの静寂──
(……俺、完全にバグ扱いじゃねぇか……)
胸の奥が熱く震えていた。
“正規データ”の外へ弾き出された先にこそ──まだ誰も見たことのない未来がある。
なぜか、そう確信していた。
(……運営は、それを“バグ”だと決めつけて、消した)
(だがな……削除できると思うなよ。俺の世界を、俺の意思を──この手で創ったもの)
「んなら……もう一度、バグってやるよ。運営ごと、な」
その声は、笑みと呼ぶには静かすぎた。
リリア──いや、俺の口元が、ゆるやかに弧を描く。
天上から赦す女神のように穏やかで、同時に世界を断罪する刃のように冷たい。
「この“勇者リリア”で──運営ごと、世界を、もう一度ぶっ壊してやるよ。」
言葉は森の肌理を撫でるように消え、余韻だけが宙に残った。
──その時。
視界の端で、封印プロトコルのウィンドウが形を変えた。
《封印プロトコル:カウントダウン開始》
《残り時間:720:00:00》
数字が進むたび、胸の奥から何かが削られていく。
肉でも命でもない。もっと曖昧なやつ──記憶の端っことか、言葉の輪郭とか。
世界の「音」が少しずつ遠のき、残るのは自分の心音だけだった。
「俺」という定義そのものが、ざらざらと剥がれ落ちていく。
(……何を……削ってやがる……?)
森の空気がすっと下がった。
葉のざわめきが氷みたいに耳に刺さる。
夜でもないのに、吐息は白く煙り、影だけが濃く伸びていく。
枝の先の葉脈が逆流し、鳥の羽音が──時間を巻き戻すように響いた。
(何が……始まる?)
その刹那。
背筋を針でなぞるような視線が、背後から突き刺さった。
誰かに“観測”されている──そんな、存在ごと掴まれるような感覚。
振り返る前に、森の奥で笑い声が響いた。
乾いているのに、艶を帯びた声。
男か女かもわからない。記憶をかき乱すような響きで、胸の奥にざらりとした既視感を呼び覚ます。
その笑いは、風でも獣でもない──“プログラムの外”から流れ込んでくるような声だった。
──耳じゃない。脳のしわに直接刻まれるような声。
聞いたことがあるのに思い出せない。なのに、懐かしい。
まるで未来の自分に笑われてるみたいな感覚。
(……一度だけ、聞いた……“どこかの戦場”で──)
敵だったのか、味方だったのか……それすら思い出せない。
笑い声は消えた。
けれど耳の奥では、まだその声が囁いていた。
──「間に合わないよ」
光輪が消え、風が森を満たす。
静寂の中で、世界はひと呼吸だけ“逆回転”した。
……もう、“元通り”じゃなかった。
何かが終わって、何かが始まっている。
空気の密度さえ、どこか別の規格に変わっている。
世界は静かに、更新を始めていた。
それはただの再生じゃない。
胸の鼓動と森の脈動が噛み合い始める。
自分の心臓が、世界そのものの鼓動みたいに鳴っていた。
それは──新しい何かを産み落とす前の、不気味で、美しい胎動だった。




