『第十六話・3 : 『断罪の静寂──月下の刃は誇りを映す』
幸か不幸か、ヴァルクはその時、リリアの怒りにまったく気づいていなかった。
「……これで人類最強と呼ばれていたとはな」
月光が刃を撫で、冷たい光が頬を滑った。
灰鎧の残骸に一瞥をくれ、口元に嘲りの笑みを浮かべる。
鎌を軽く振りかざし、月明かりにその刃をかざす仕草は、まるで戦場を散歩するかのような無遠慮さだった。
「肩透かしもいいところだ。やはり“人”は脆い。」
硬質な響きが声に溶け、夜気の底を掻いた。
刃先が傾くたび、月光が曲線を縁取り、冷たく揺らめく。
胸の奥で、何かがわずかに軋んだ。
「……なあ、あんた。この空っぽの殻が砕ける寸前まで、何を抱えていたと思う?」
ヴァルクは鎌の刃で胸甲の欠片を軽く弾く。乾いた金属音が夜気に散り、欠片は土の上で無力に転がった。
「守るべき命か? 人々の未来か?
……どちらにせよ、声も血も持たぬまま砕け散った。守ったものの重さすら、わからぬままにな。」
「──言葉を慎みなさい。」
「……あなたに、そんなことを口にする資格も、権利もない。」
リリアの低く研ぎ澄まされた声。
鞘の中で刃が震え、鋭い残響が夜気を裂いた。
胸奥の鼓動が刃に呼応し、音を刻むたびに空気が震える。
夜が、その刃に怯えて息を潜めた。
風がリリアの周囲で渦を巻き、月光が剣の縁をすべり落ちる。
黄金の瞳がゆっくりとヴァルクを射抜いた。
空気が、熱ではなく“圧”で震えた。
彼女の周囲に見えぬ波紋が広がり、地面の露が一斉に蒸発していく。
「あなたには……わからないだろうね。」
一音一音が刃のように冷たく響く。
「──誇りを守るということが。」
その瞳に宿る光は、もはや感情ではなかった。
怒りすら燃え尽きた先に残る、静かな滅びの光。
静寂が、息を飲んだ。
ゴウッ──。
それまで沈黙していた月が、わずかに瞬いた。
夜の地面が低く唸り、立ち上る熱が空気を灼き変えた。
月明かりが揺らぎ、影が波紋のように震える。
砂の粒が宙に浮き、草葉が風もないのに斬り裂かれる。
音そのものが斬撃の軌跡と化し、空気が呼吸を拒む。
胸の奥の灰が、再び灯りに変わった。
その瞬間、ヴァルクは悟った。
戦場全体が、彼女の魔力圏に沈められていることを。
それは“力場”ではない。
世界そのものが、リリアという刃の意志に屈服している。
皮膚が総毛立ち、背骨の奥を冷たい鎖が這い上がる。
空気の流れがねじれ、風が息をするたびに、硝子のような響きを立てた。
キン──。
空間の一角に、淡い青白い光の矩形が浮かんだ。
戦場の層が切り取られ、覗き込むように情報が表示される。
――【魔将軍:ヴァルク】――
種族 :魔族(鎌使い)
称号 :〈死鋼の刈り手〉
脅威度 :S級
魔力量 :A+
近接戦闘力:SS
防御力 :A → C(魔力圏干渉)
敏捷性 :A → C(魔力圏干渉)
特殊耐性 :精神干渉無効/斬撃耐性(中)
弱点 :聖属性/武器破壊
装備 :死鋼の鎌〈メルトシェイド〉/黒鉄外套〈グリムクローク〉
赤く点滅する敏捷性の数値が、まるで心拍を刻むように瞬き、〈魔力圏干渉〉による制限を告げていた。
ヴァルクは、ほんの一瞬、その意味を理解できなかった。
次の瞬間、肺の奥を掴まれたように息が詰まる。
空気が重い。
世界の輪郭が、リリアの呼吸に従って脈打っていた。大気が、皮膚の裏側を撫でるように形を変える。
世界が、彼女を中心に回転している。
「お前の力は……ガルヴェインの足元にも及ばない。」
その言葉は低く、静かで、
しかし確かに“断罪”だった。
静寂。
風も音も凍りつき、鼓動だけが耳を打つ。
ヴァルクの指先がわずかに震える。
見えぬ圧が首筋から背骨へ重く沈み、肺の奥の空気を押し潰す。
喉が詰まり、息が刃のように逆流して胸を裂いた。
呼吸が浅く、速くなっていくのが自分でもわかった。
黄金の瞳が、月光を呑み込む。
その奥に灯るのは、感情ではない。
ただ、滅びを告げるためだけに研ぎ澄まされた、絶対の意志だった。
空気が震え、形のない殺意が立ち上がる。
月光が震え、影が刃のように伸びる。
――それは、奪われたガルヴェインの誇りそのものが、刃となって甦ったかのようだった




