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『第十四話・1:幻が囁く、帰還の声』

翌朝。

空気はひんやりとして、音がどこか遠い。

空は雲ひとつなく澄み切っているのに、北の地平だけが濃い灰色で覆われていた。

その色は、空に貼り付いた傷口のようで、風に吹かれても一切動かない。

嵐の前触れではない──あれは、生き物のように呼吸し、こちらを見据えている。


リリアが街の門を抜けた瞬間、背後の喧騒が音を失った。

行き交う人声も、蹄の響きも、まるで薄膜の向こうに置き去りにされたようだった。

代わりに、遠くで微かな鉄の軋みが風に混じって届く。


振り返っても、そこには誰もいない。

ただその音だけが、北風に乗って耳の奥を撫でていった。


(……いやいや、完全にホラー映画じゃん。開幕退場とか、勘弁してくれよ。)


北の空を覆う灰色は、ただの雲ではなかった。

ほぐれた煙の糸が、風とは逆向きに地面へ垂れ、触れた土をかすかに震わせている。

その奥で、鎧のような影が一瞬、霧に溶けた。


その刹那、風がわずかに向きを変える。

鼻を刺す金属の匂いが、唐突に空気へ滲み込んだ。

薬草と鉄の混じる匂い──まるで、誰かの戦場の記憶が風に紛れて蘇ったようだった。

それは、鉄の匂い。

同時に──血の味を思い出させる匂いだった。


霧は、近づくほど輪郭を失い、地平ではなく、すぐ目の前から滲み出している。

一歩ごとに靴底の音が重くなり、生温い風が肌に絡みつく。記憶の輪郭が、じわりと溶けていった。


(……ここからは、もう街の安全圏じゃない)

(引き返せる保証も、やり直しの機会もない。)


喉がひとつ鳴る。

それでも、胸の奥では熱がゆっくりと膨らんでいた。

あの鎧の奥に眠るのは、セラフィーが敬い、悔い、今なお想っている“師”。


剣の柄を握り直す。

鞄の中で、ワンタがわずかに傾いた。

揺れた拍子に、鈴のような小さな音が鳴る。

その一瞬の響きが、胸の奥の迷いをひとつ溶かしていった。


リリアは霧の一歩手前で立ち止まり、深く息を吸った。


──風が、霧の奥から吹いた。

逆らうように髪が揺れ、鼻先に冷たい鉄と、かすかな甘い匂いが混ざり込む。

その香りは、どこか祈りのように静かで──恐怖よりも、約束を思い出させた。


(行くぞ──)


──境界を踏み越えた瞬間、世界は静まり返った。

鉛の靄が視界を満たし、足元の感覚が溶けていく。

背後の世界は、音と色が閉ざされ、前だけが淡く光っていた。


その光は、呼吸するたびに心臓の鼓動と共鳴した。

まるで“現実”という概念そのものを、一歩ずつ塗り替えていくように。


霧の中は、思っていたよりも静かだった。

風も止み、靴が土を踏む音さえ、遠くから響いてくるように遅れて耳に届く。

そのわずかな遅延のあいだに──一拍分の空白が生まれる。

まるで、自分の存在そのものが“遅れて”この世界に届いているかのようだった。


呼吸が遅れる。鼓動が遅れる。

思考すら、霧に追い越されていく。

瞬きをしただけで、何分も経ったような錯覚に囚われる。


(……距離感が、おかしい)

足元は確かに地面を踏んでいるのに、次の瞬間には浮遊感が襲い、歩幅がどれほどなのかもわからなくなる。

胸の奥で鳴った鼓動すら、耳に届くまでわずかに遅れていた。

頭の奥がじんわりと痺れ、柔らかな膜が、ゆっくりと全身を包んでいく。


頭の奥がじんわりと痺れ、柔らかな膜が、ゆっくりと全身を包んでいく。

──そして、誰かの呼吸が、自分の鼓動の裏側でそっと重なった。


視界の端で赤い布がふわりと揺れた。

反射的に振り返る。──それは、昔の自分の実家のカーテンだった。

西日の差す部屋、埃をかぶった机、本棚に並ぶ漫画。

閉め忘れた窓から、夏の夕方の風がゆっくりと吹き込んでくる。


「颯太、もういいんだよ。帰っておいで。」

──懐かしい声だった。母の声に、よく似ていた。

その響きに、頬を撫でる温もりまで錯覚した。


記憶の中でしか存在しないはずの光景が、いま、目の前に“現実”として立ち上がっている。


(……違う、これは幻だ)

そう理解しても、懐かしさが胸を締め付ける。

足が止まり、思わず手が伸びてしまう。

指先に、布のざらりとした感触が確かに触れた──気がした。


だが、次の瞬間には景色が煙のように散り、再び灰色の霧だけが残った。

残像の熱が胸の奥に突き刺さり、心臓を素手で握られたように痛む。

息を吸おうとしても、空気が胸の奥で途切れる。

(……やばい。触れたら、“戻れなくなる”)


幻が囁いた言葉が、まだ耳の奥に残っている。

「……帰っておいで。」


(胸の奥で、何かがかすかに軋んだ。)

──けれど、俺が帰るべき場所はもう決まっている。

霧じゃない、幻じゃない──この世界だ。


喉の奥に冷たいものが落ちていく。

霧はただ幻を見せるだけじゃない。

思い出を餌にして、心ごと絡め取ろうとしていた。


リリアは奥歯を噛み締め、もう一度、胸に誓いを刻んだ。

(──セラフィーの師を救う。

そのためなら、どんな幻にも屈しない。)


その瞬間、背のレーヴァテイン・ゼロがびり、と震えた。

刃の紋が赤黒く脈打ち、周囲の霧がざらりと逆流する。

赤い閃光が一閃し、幻の幕が裂け、滲んでいた景色が一瞬だけ正気を取り戻す。

剣が、持ち主の決意に呼応して、静かに意志を示していた。


同時に、鞄の中でワンタが小さく瞬いた。

ぬいぐるみの胸元から、淡い金の光がふわりと広がり、剣の赤と混じり合う。

それは、冷たい魔剣の炎に“ぬくもり”を与えるようだった。


赤と金、二つの光が溶け合い、霧の中に一本の道を描く。

その瞬間、幻の囁きが掻き消えた。


現実が、再びリリアの足元に戻ってくる。

音が、ゆっくりと世界に戻りはじめた。


冷たい魔剣と、温かいぬいぐるみ。

両極の感触が、ひとつの背で寄り添う。


そして、その境界線の上に立つリリアの瞳が、初めて“英雄”の色を帯びた。

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