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『勇者リリアとレベル999のモフモフぬいぐるみ』 Eden Force Stories I(第一部)  作者: 一条陽菜子


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『第十三話・4 : 忘却を呼ぶ霧の前で』

舗装のない街道は昨夜の露で湿り、蹄が踏みしめるたびに小さな水音を散らす。

馬上に揺れる身体が一定のリズムを刻み、耳元で風がほどけていった。

湿った大地の匂いを吸い込み、鼻腔の奥で小さく息を整える。

小鳥の声が時折響くたびに、旅の始まりを告げていた。


右手には小川が流れ、光の粒が水面を踊っていた。

左手には低い丘と、その向こうに広がる濃い森。

だが、そのさらに向こう──北の地平だけが、輪郭を溶かすように灰色へと沈んでいた。


昼を少し回った頃、道端の焚き火に腰を下ろす老人と出会った。

荷車の横では、干し草を積んだロバが大人しく立っている。

老人の片足は膝から下がなく、木の義足が土埃にまみれていた。


焚き火の煙が、ゆっくりと風に溶けていく。

近づくにつれ、焦げた木の匂いと乾いた草の香りが混じり、胸の奥に微かな熱が残った。


老人は、炎の向こうで静かに身じろぎもしなかった。

片方の肩に落ちる陽光が、皺だらけの手の節を黄金色に染めている。

木の義足が地面を押すたび、乾いたこつ、こつという音が、まるで時の針のように響いた。


「……北へ行くのか」

掠れた声。煙に混じるような低さで、だが確かにこちらを見ていた。


「ラグネルまで」

リリアは短く答える。


「その先は……やめとけ」

老人は煙草を唇に挟み、火をつけることもなく、ただ指先で弄んだ。

「霧の砦は、もう“道”じゃねえ。あそこは、帰りを忘れる場所だ」


焚き火がぱちりと弾け、火の粉が宙を舞った。

一瞬、老人の片目の奥で光が揺れ、記憶の影がにじむ。


「……昔、仲間と行った。呼ばれたんだよ、名前でな」

「名前で?」

「ああ。聞こえるんだ、霧の奥から。“こっちだ”ってな。

 声のした方へ進んで……気づいたら、俺ひとりだった」


老人は、義足を軽く叩いた。

その仕草に、焚き火の影がわずかに震えた。


「足だけは……まだ、あの霧の中にあるのさ」


炎の明滅が、彼の横顔を赤く照らす。

「……霧の中ではな、鎧の音が聞こえる。

 夜でも昼でも、同じ歩みの速さで、途切れもせずにな。

 それを耳にしたら、もう遅い。気づけば足が、勝手に砦へ向かっているんだ」


「俺も、気づいたら膝まで沈んでた。引きずられるみてえに。

 逃げようとしたが……間に合わなかったんだ。」


その声音には、聞いた者しか知らない重さと、失ったものの悔恨が滲んでいた。


リリアは一瞬、焚き火の炎に映る自分の影を見つめた。

──あの霧の奥に、**あの人の“答え”**があるのなら。

たとえ足を失おうと、進むしかない。


「忠告ありがとう。でも、行かなきゃいけないんだ」


リリアはそう告げ、馬の手綱を引いた。

蹄が再び土を叩き、背後で、ため息と焚き火のぱちぱちという音だけが遠ざかっていった。


やがて森を抜けると、視界の先に灰色の壁が立ちはだかった。

石で築かれたその壁は、年月を経ても崩れを許さず、まるで巨大な墓標のように沈黙している。


──息を呑んだ。

その背後には、うねる霧が空へとせり上がり、砦全体を包み込んでいた。


風が吹き抜けても、その霧だけは微動だにしない。

むしろ風に逆らって揺れ、表面にさざ波のような模様を浮かべ、奥の闇をちらりと覗かせる。

その瞬間、匂いすら奪われた気がした。草の香りも、湿った土の匂いも、何もかも。

名を呼ばれたときのような“空白”が、舌と喉をすり抜けていった。


風も、時間も、息を忘れた。

鼓動の音だけが、自分の体の中で世界を刻んでいる。

──その刹那、鎧がきしむような低い音が一度だけ響いた気がした。

その響きは、まるで名を呼ぶ声のように耳の奥に残った。


背筋に冷たいものが這い上がる。

胸の奥で心臓がひときわ強く打ち、背のレーヴァテイン・ゼロがわずかに震えた。

魔剣が自ら反応するのは、強大な魔力を感じ取った時だけだ。

それは、挑む者への合図にも、帰ることを許さぬ宣告にも思えた。

(……あれが、ガルヴェインの砦)


ただ見ているだけで、霧の中から“何か”が名を呼び、心の奥を覗き込んでくる気がした。

その声に触れた瞬間、世界の輪郭がきしりと軋む。


一瞬、舌の上の味が消え、胸に抱いた名さえ薄れていく感覚が走る。

思考の端が、霧に溶かされていくようだった。

そのとき、不意にセラフィーのあの言葉が胸を突いた──「忘れたくないものを、握りしめて」。

目を逸らせば、その感覚すらも呑み込まれてしまいそうで、視線を外せなかった。


(……大丈夫だ)


視線を砦へ戻し、ゆっくりと馬首を返す。

霧はまだ遠くにあるはずなのに、離れるほど背中にその冷気がまとわりついた。

ラグネルでの準備と情報──それが揃うまでは、あの中へは踏み込めない。


風がひとすじ、馬のたてがみを撫でた。

その感触が、“自分”がまだこの世界に在ることを教えてくれる。

胸の奥の緊張が、ほんの少しずつほどけていく。

けれど、その底に沈んだ警戒の糸だけは、最後まで切れることはなかった。


北の空を覆う灰の下、遠くにラグネルの城壁がぼんやりと浮かび始める。

胸にまだ答えの出ない迷いを抱えたまま、それでも──進むと決めた歩みを止めることはなかった。

風が、遠くで鐘のように鳴っていた。


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