『第十三話・5 : 忘却の霧、そして師の影』
日が落ちる前、街道の先にラグネルの灯が揺らめき始めた。
夕闇の中に浮かぶその光は、旅人を迎える温もりというより、外敵を睨み返す鋭さを帯びている。
石造りの外壁には鉄板が打ち付けられ、壁面の影に潜む見張りの視線が、通る者をひとり残らず測っていた。
その鉄板には、過去の戦で打ち込まれた矢や槍の痕が深く残り、街が幾度も北からの脅威を受け止めてきたことを物語っていた。
さらに門の横の掲示板には、戦で失われた者たちの名がびっしり刻まれた木札が吊るされていた。
風に揺れるたび、カタカタと鳴る音が……妙に胸に残った。亡者の鎖、なんて言葉が浮かんで、俺は無意識に視線を逸らしていた。
交易の街らしく、大きな門の前には行商人の列ができていたが、その列の荷車には果物や布、工芸品ばかりで、北行きの武具や食糧を積んだものは一台もない。
──この街では、北へ行こうとする者は異端。
その空気を、颯太は肌で感じ取っていた。
(……はい出ました、“フラグ台詞その1”。ホラー映画なら、この後一番最初に消える役が俺だよな)
門をくぐった瞬間、香辛料と革の匂いが鼻をくすぐった。
狭い路地では異国の言葉が飛び交い、色鮮やかな布や金属細工が軒先に並んでいる。
しかし──「北の砦」の話が出ると、笑っていた商人も旅人も、ふっと声を潜め、目を逸らす。
宿を見つけて荷を下ろすと、リリアは市場へ出て、保存食と水袋、地図を新調した。
店主の老婆は、品物を包みながらふと顔を上げ、皺に埋もれた瞳でまっすぐ見てきた。
「……あんた、北へ行く気かい?」
「……ええ」リリア──いや、颯太は女の声で返しながら、心の奥では既に構えていた。
「なら、名前と、大事な人の顔だけは、忘れないようにするんだよ。霧に入ると……ほんとにね、呼んでも返ってこないことがあるんだ。声まで奪われちまうのさ」
老婆の声は震え、包み紙を結ぶ指が止まった。
「うちの息子もそうだったよ……砦から戻ってきたのに、わたしを見て“あんた誰だ”って。呼ぼうとした名前は喉まで来てたのに、掠れて消えたんだ。そのまま二度と──母と呼んでくれることはなかった」
(はい呪いの注意書ききた……絶対このババ様NPCのセリフは攻略本レベルに大事なやつ)
(名前と……顔)
胸の奥が少し締め付けられる。
昨日のセラフィーの笑みが、はっきりと脳裏に浮かんだ。
なぜかそれが、遠い昔のもののように思えて、息が詰まった。
老婆が言い終えると、通りを横切っていた男がぼそりと呟いた。
「……あのガルヴェイン様も、街を守るために鎧に囚われちまったんだ。可哀想になぁ……英雄だったのに」
その言葉に周りの人々も一瞬だけ黙り込み、誰もが視線を落とした。
笑い声が途切れ、焚き火の煙だけが夜空へ細く昇っていく。
(……敵、ってだけじゃないんだな)
胸に鈍いものが残り、リリア──いや颯太は思わず拳を握った。
⸻
夜、ラグネルの街は灯をともし、昼間の喧騒をそのまま引き継いでいた。
酒場の扉を開けると、旅人たちが各地の噂を肴に杯を交わしている。
「灰鎧の将ガルヴェインはな、剣を抜かなくても相手を斬るって話だ」
「いや、あれは霧が幻を見せるんだ」
「どっちでも同じだ、帰ってきた奴はいねぇ」
「俺の兄貴も行った。半年前だ……“必ず帰る”って笑ってたけど、いまだに門をくぐってこねぇ」
さらに奥の席で、酔った男が小声で囁く。
「……俺は見たんだ。砦の上を歩いてる“影”をな。鎧の音だけが響いて、姿は霧に溶けて……ぞっとした。生きてる人間じゃなかった」
「剣を抜かずに斬るってのはよ……“記憶ごと斬られる”ってことだ。斬られた奴は体に傷ひとつ残らねえまま、“自分が誰か”を忘れて死んでいく。俺は……そうやって仲間を失った」
(抜かないで斬るって何? いやいや、バグ技かチートコードだろそれ)
木製のカウンターに肘をつき、薄いスープを啜る。
湯気がふっと揺らいだ瞬間、それが灰色の霧と重なって見えた。
遠くの砦から、鎧の音がこちらに近づいてくる錯覚に、指先が冷える。
(……行くしかない。けど演出が完全にホラーだぞ。ほんと主人公でよかったのか俺)
⸻
宿に戻り、ベッドに体を沈めた。
毛布を肩まで引き上げ、ゆっくりと息を吐く。
この部屋に漂うのは石造り特有の冷たさと、遠くの市場から微かに残る香辛料の匂い。
それらを意識の端から追い出すように、心を深く静めていく。
眠るためじゃない──セラフィーと繋がるためだ。
この方法なら、街の喧騒も壁の向こうの気配も、すべて遮断できる。
瞼の裏に広がるのは、色も音もない世界。
そこに、自分の鼓動だけが水面の波紋のように広がっていく。
やがて、その中心へ向かって──遠くから確かに近づいてくる気配があった。
(……セラフィー、聞こえる?)
──聞こえるわ、リリア。
耳ではなく胸の奥に直接届く声。
同時に、見えない風が頬を撫で、現実から半歩、別の場所へ踏み出したような感覚が背筋を這い上がった。
「明日、砦に向かう……その前に、聞きたいことがあるの」
──何?
「灰鎧の将ガルヴェインって、本当は何者なの?」
短い沈黙。
セラフィーはすぐに答えず、胸の奥に凍るものを抱えるように、深く息を吸った。
「……あの人は、私の師匠だった。」
その声には、かすかな震えと、遠い昔を懐かしむような微かな揺らぎが混じっていた。
「初めて剣を握ったとき、“迷うな、剣は心を映す”って教えてくれた。
戦場で背中を預けられるのは、あの人しかいなかった……」
(ちょ……師匠!? ここで師匠属性つけるとか、王道イベント回収しすぎじゃない?)
(……でも、それってつまり──セラフィーの師匠を、俺が斬らなきゃいけないのか?)
胸の奥がひやりと重く沈み、思わず息が止まった。
(いや待て、これ完全に“裏切り師匠ルート”のフラグだろ?)




