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『勇者リリアとレベル999のモフモフぬいぐるみ』 Eden Force Stories I(第一部)  作者: 一条陽菜子


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『第十三話・1:旅立ちの鐘、シュークリームの街で。』

──その街は、夢と現のあいだでふらついていた。


灯りはまだ本気を出さず、空は藍とも茜ともつかない色で足踏みしている。

屋台の火が風でちろりと揺れ、甘い匂いが石畳をゆっくり渡ってくる。飴細工の屋台の前で子どもがはしゃぎ、樽を押す行商が声を張る。


どこかの路地では油の弾ける音──たぶん砂糖菓子。シナモン……いや、ちょっと焦げた砂糖の匂いかもしれない匂いが鼻先にまとわりついた。窓の隙間から小さな弦の音が漏れ、聞き慣れない言葉が波みたいに寄せては返す。


影なんて最初から存在しない、みたいな顔をした穏やかさだ。

けれど向かう先は“魔王の領域”。この安らぎは、逆に現実との落差をくっきりさせる。


リリアはその景色に紛れ込むみたいに歩いた。

肩のリュックは旅の形に馴染み、腰のポーチは角が少し擦れている。装備の重みはもう日常の重みだ。ただ、足の奥に、砂粒みたいな迷いがひとつ転がっていた。


(……変わったな、この街)

角を曲がるたび見慣れない建物が増えた。それでも古いアーチや薬草屋の手描き看板は昔のままで、そこだけ胸を突く。変わるものと残るものが同じ空気を吸っている。優しいけど、少し残酷だ。


(あの頃はさ、“画面越し”でスイーツ屋のメニュー眺めて、ログアウトしたら結局コンビニのプリンで済ませてたんだよな)

(朝に起きる理由もなくて、時間だけが腐っていくのを見てた。──あれが“生きてる”って言えるのか、今でもわからない)

(今はちゃんと砂糖の匂いを吸って歩いてる。──それだけで、もう別の人生だ)


風が、昔の記憶を撫でていった。けれど、その手触りはもう他人のものだった。


──そのとき。


「そろそろ……準備は揃ったかしら」


振り返ると、赤いマント、銀の髪を高く結い上げたセラフィーが夕風の中に立っていた。絵になりすぎる立ち姿で、周囲の景色まで従えて見える。


「保存食に、回復結晶。魔除けの札も……地図は新しくしたほうがいいわね」

「なんか修学旅行前夜みたいだね」

「当然よ。相手は“カルマ=ヴァナス”。世界律すら撹乱する存在なんだから」


夕風が吹き抜け、地図の端がぱらりとめくれた。

その一瞬の静けさの中で、リリアの胸に言葉が浮かぶ。


(……魔王を倒しに行く)

(あの頃の俺が、こんな場所に立つなんて──想像もしなかった)


(あの頃は、昼夜が逆転して、カーテンも開けずにモニターの光だけ見てた。

 世界なんて、もう触れる資格がないと思ってた。)


 (でも今は違う。風の匂いも、砂の冷たさも、全部“生きてる”感触だ。)


セラフィーの口元がほんの少しだけ緩む。微笑みというより、長く並んだ肩同士の合図。


夕風がふたりの間を抜け、銀髪の先がわずかに揺れた。

その静けさの中で、セラフィーがふと笑う。


「忘れないわ。“無敵のリリア”の背中。私、ずっと追いかけてたから」


リリアは教会前の階段に腰を下ろす。セラフィーもためらいなく隣へ。

古い鐘の影がふたりを包み、風の音が一枚向こうに下がった。


「……ちゃんと戻って来てくれて、嬉しいわ。リリア」

「うん。わたしも……ちょっと、ちゃんと聞いときたいことがあって」


言葉が風に溶ける。

セラフィーは一度、視線を空へ逸らした。

夕光が銀髪を縁取る。わずかに沈黙が流れて──そのあとで、彼女が小さく笑う。


「……やっぱり、あなたは変わったわね」

声色は穏やかで、奥に探る気配が混じる。


そして彼女は風の向こうを見つめるように、言葉を選びながら話し始めた。


「魔王カルマ=ヴァナスの本拠地は“神の忘却領”。そこへ至るには──七つの結界を破らなきゃいけない」


「七つ……」


「ひとつでも残っていれば、城門は開かない。結界ごとに守護者が立っているわ」


リリアは小さく息を呑む。


「……結界って、どこに?」


「最初はこの街から北。“ラグネル”って交易の街を越えて、さらに北の砦。

そこを守るのが──ガルヴェイン。《灰鎧の将》」


セラフィーの声が、わずかに沈んだ。


「彼は人間だったころ、百の軍勢を率いた英雄。

強くて、誇り高くて……最後に声を聞いたのは、戦場だった。

凛としてて、眩しかった。だから今の姿が、余計に痛いの」


リリアは顔を上げる。


「……人間だった?」


セラフィーはゆっくり頷き、遠くへ視線を滑らせた。

口元がわずかに震え、沈黙がひとつ落ちる。

懐かしさと痛みが、同じ色でその瞳に宿っていた。


少し間をおいて、リリアは低く呟く。


「……じゃあ、その砦を落として、封印を壊すしかないね」


セラフィーはかすかに笑った。

けれどその笑みに、苦みが混じる。


「言うのは簡単。でも、あの砦はただの要塞じゃない。

近づく者の“大切な記憶”を奪う霧に包まれてるの。

守るためなのか、忘れさせるためなのか……もう誰にも分からない」


その声は、夕暮れの鐘の音みたいに胸の奥で鳴り、静かに消えていった。


しばらく、ふたりとも黙っていた。

沈黙をひと口飲み込むようにして、リリアが息を吐く。


「ねえ、今夜……どこかで、なにか食べていかない? 旅立つ前に」


セラフィーは目を見開き──すぐに、柔らかく頷いた。


「……ええ。ちょうどいい店、知ってる。少し歩くけど、通り道にあるの」


「通り道?」


「“あの”菓子工房の前を通るのよ」

「あ……思い出した。あなた昔、試合帰りにシュークリーム十個も──」


「や、やめて! 言うなって!」


ふたりの笑い声が、夕暮れの街に溶けていく。

その笑いは、ほんの少しだけ甘くて、どこか懐かしい匂いがした。


ほんのひととき、ふたりの声は街角のざわめきに溶け、夕暮れを甘く染めた。


けれど──その笑いの裏で、胸の奥がひときわ静かに軋む。


(この時間が永遠に続くわけじゃない)

(それでも、せめて“今の俺”として刻んでおきたい)

そのとき、教会の鐘がひとつ鳴った。

澄んだ音──ふたりの未来を薄く区切る線みたいに。

その響きが、短い静けさをいっそう愛おしく見せた。


(……バカみたいだ。魔王討伐前に、シュークリームの話とか)

(でも、そういうのが、きっと“生きてる証拠”なんだろう)


(……なんだこの雰囲気。完全に“青春アニメのワンシーン”だぞ。いや、俺、中身けっこうオッサンなんだけど……?)


そのとき、通りすがりの子どもが串飴を差し出した。


「お姉ちゃん、食べる?」


反射的に財布に手を伸ばしかけ──我に返って額を押さえる。


(いやいや、遠足かよ……!)



横でセラフィーが笑いを噛み殺していた。

夕暮れの灯りの中、その横顔は、やけに明るく見えた。

けれど──その明るさの奥に、ほんの少しだけ、切なさが滲んでいた。

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