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『勇者リリアとレベル999のモフモフぬいぐるみ』 Eden Force Stories I(第一部)  作者: 瀬尾 碧


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『第十二話・5:氷の底の火』


そのとき。

肩のショルダーバッグから、ぬいぐるみが、ぽこりと顔を出した。


ワン太──

かつて“颯太”だったぬいぐるみが、

何も知らない顔で、手を振っている。


くるり、くるりと、何度も、何度も。


その手の動きは、あまりに無邪気で──

けれど、どこか、切ないほど“希望”の形をしていた。


胸の奥に、じんわりと、小さな熱が滲みはじめていた。

それは、迷いとも、悔いともつかない。

ただ、心のいちばん柔らかい場所に──ぽつりと触れた“温度”だった。


(……俺を拾ってくれた。名前までつけてくれた……)

(抱きしめてくれて。いっしょに笑ってくれて。この世界で、ただのぬいぐるみだった“俺”に──“居場所”をくれた)


(そうだ。リリアは、俺の“はじまり”なんだ)


その名を思い出すだけで、颯太の胸の奥が、ゆっくりと温まっていく。


(あの子が笑った日から──世界は初めて、俺に“意味”をくれたんだ。)


「今日も、いい子だね」

──あの声が、耳の奥で、かすかに蘇る。


雨の日だった。

濡れて冷たくなった俺の体を、彼女はためらいもなく抱きしめてくれた。

その温もりは、俺にとっての最初の“現実”であり、そして──すべてのはじまりだった。


だから、忘れちゃいけない。

この手も、声も、顔も──

確かに“俺が作った”ものだけど、どれも、本来“俺のもの”じゃない。


(……この身体は、リリアのものだ)

(俺が自由に動かしていいものじゃない)

(もしも、このまま俺が前に立ち続ければ──リリアは“声”すら失ったままになる)


そう思った瞬間、胸の奥がひりついた。

リリアの指先が、震えていた。


最強の肉体のくせに。

ほんとうに守りたいものの前では、こんなにも無力だった。


(俺は、このまま“勇者の皮”を着たまま、生きていくのか?)


息をするたび、胸の奥で“誰か”の鼓動が鳴っていた。

自分の呼吸が、自分じゃない心臓に重なるような違和感。

その境界の曖昧さが、やがて痛みに変わっていく。


答えを探すより先に、呼吸がひとつ止まった。


(あの歓声も、拍手も、確かに俺が戦いで掴んだものだ。

俺は彼女の“身体”で剣を振るい、彼女の“名”で世界を救った)


(けれど──今、リリアはちゃんと“別の意志”をもって、

 一人の人間として生きている。

 それをないものとして、このまま俺が“リリア”として生き続けていいのか?)


(……俺は、そんなことをしたかったんじゃない)


思考が、罪悪感と祈りのあいだで、ゆっくりと揺れる。

“正しさ”よりも、“優しさ”を選びたい──

その想いだけが、静かに胸の底に残った。


目を閉じると、あの子の声が──あの日の雨音のように、そっと蘇る。

「……ねぇ、ワンタ。今日もいっしょだね」


胸の奥が、じんわりと疼いた。

あの温もりを思い出すたびに、時間の奥から小さな痛みが滲み出す。


(……俺は、リリアを裏切りたくない)

(このまま、“リリアを封じた英雄”として生きていくなんて──それはもう、俺じゃない)


──けれど。


答えは、すぐには出せなかった。

“戻したい”のに、“戻せない”。

“目覚めてほしい”のに、“起きてくれない”。


願いと現実のあいだで、心がひび割れていく。

その矛盾こそが、いまの俺を形づくっていた。


救いたいと願うほど、距離は遠のく。

それでも──立ち止まることだけはできなかった。


息を吸うたび、焦燥が血の中でざらついた。

胸の奥をかきむしるような熱が、少しずつ形を持ちはじめる。


それでも──ひとつだけ、確かなことがある。


(このまま、あの子の魂を封じたままには──しておけない!)


拳を握る。

それは、リリアの手だった。

指先がわずかに震え、体温が脈の形で返ってくる。

けれど、その熱の奥で脈打っていたのは──間違いなく“颯太”の意志だった。


(リリア……もう一度だけでいい、目を開けてくれ)

(お前をもう一度──この世界の光の中に、連れ戻したい)


颯太は、目の前に漂うそれを見つめた。

砕かれ、光をなくした──輪郭を持たぬ魂の残滓。

それでも、確かにリリアの名残を感じることができた。


(……まだ残ってる。ここに……)


息を呑み、祈りを言葉に変えるように、声を震わせた。


「《ベリンガム》——魂喚起零式!」


両の手をその光に差し伸べる。

祈るように指先を重ね、魂へと全魔力を注ぎ込んだ。


淡い陣式が宙に浮かび、青白い光がひととき強く脈打つ。

薄い蒼が波紋のように広がり、結界全体が、一瞬だけ呼吸をした。


だが──

次の瞬間、世界は息を止めた。

光はぱきんと弾け、粉雪のように散っていく。


砕けた粒は涙の形になって舞い、颯太の頬をすり抜けて消えた。

伸ばした指先は、ただ冷たい空気を掴むだけ。

音もなく、光もなく、ただ“喪失”だけが、空気の中に残った。


魂の輪郭は、祈りの届かない彼方へと遠ざかっていった。


(……駄目だ……届かない……! 手が、熱をすり抜けていく……!)


どれだけ魔力を込めても、魂は冷たい膜に阻まれて震えるばかりだった。

指先は確かに触れているのに、そこには“温度”がない。

まるで厚い氷壁の向こうで、遠い炎だけがゆらめいているようだった。


声を投げても、何も返らない。

返ってくるのは、底なしの静寂と、拒絶の冷気だけ。


そして──沈黙の奥で。

誰かの名を呼ぶ声だけが、もう世界の向こうへ溶けていった。


創律の檻が、静かに、しかし確かに脈打ちながら告げていた。

それは、世界律の根幹を書き記す書板──存在の名を定義する“法の頁”だった。

蒼い線が宙を走り、空間そのものが“頁”の形をとって折り畳まれていく──世界が自らを読み上げている。


《この名は、汝に属さぬ》

《偽りの勇者よ、他者の魂を冠するなら、門は永劫に閉ざされる》

《──それでも、お前は呼ぶのか。己の名ではなく、“彼女”の名を》


空気が鳴った。

それは音ではなく、世界の構文そのものが震える響きだった。

言葉は声ではなく、存在の中枢へ直接刻み込まれる符号。


次の瞬間、全身の魔力が逆流し、視界が白く弾けた。

それは拒絶ではなく──

世界律の冷たい手が、頬を撫で、沈黙の中でそっと囁くような“警告”だった。


(……俺に、まだ問うのか……)


胸の奥が、静かに焼けるように痛んだ。

魂は、見透かされるように震えていた。


握った手から魔力が滲み出し、霧散するたびに喉が焼けるように乾く。

鼓動が軋み、絶望が氷の刃となって心臓をひと突きにする。


けれど──その痛みは、決して颯太を止めなかった。

むしろ、焼け跡に刻まれるように、ひとつの言葉が残った。


それは、彼女が最後に笑って言った言葉。

──「また、遊ぼうね。」


たったそれだけの言葉。

けれど、その無邪気な響きが、いまではこの世界の形そのものを支える“約束”だった。


冷たい沈黙の中で、その記憶だけが、かすかに息づいている。

凍てついた世界の奥で、まだ彼女の声が微かに揺れていた。

そしてそれを思い出した瞬間──氷の底に、ほんの小さな火がともった気がした。


それは、まだ“失われた彼女”ではなく、“待っている彼女”の光だった。

(絶対、リリアを目覚めさせるんだ!)


たとえ世界が崩れ落ちても。

あの日の笑顔が、まだ俺を呼んでいる限り──

この呼び声だけは、きっと届くと信じて。


雪の粒のような光が、胸の奥で、まだ消えずに揺れていた。


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