『第十話・7 : 記録再起動──女神リリア、降臨』
リリアの輪郭は薄れ、腕も髪も、まるで水面に落とした墨が静かに溶けていくように広間へ滲み始めていた。
声に触れた部分から、“存在の定義”が剥ぎ取られていく。
空気が、彼女の消失を受け入れるように沈黙した。
崩れ落ちた身体の中で、かろうじて動く唇から、消え入りそうな吐息だけが漏れた。
「……わ、たし……は……」
──沈黙。
アドラは嗤うことなく、ただ冷たく告げた。
《“器”は不要。
かつての勇者を呼べ──“最強”と謳われた、あのリリアを。
我、かの者を抹消し、正史を作り直す!》
その宣告に呼応するように、ワン太の入ったショルダーバッグがわずかに震えた。
次の瞬間、ぬいぐるみが自らの意思で転げ出すように、床を這い出てきた。
布に覆われた小さな手足が、必死に石床を掻く。
その動きは決して格好良くはなかった。
だがそこには、“守りたい”という、ワン太──颯太のたった一つの意志が宿っていた。
「……ワン太……?」
視線が揺れた一瞬、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
涙が零れ、震える声が漏れる。
「……助けて……」
そのとき、リリアは完全に落ちた。
──同時に、ぬいぐるみの縫い目から蒼い光が漏れ出す。
それは殻を破るように全身へ広がり、布の身体の内側から脈動が走った。
細い糸となった光は、確かな熱を帯びてリリアの胸へ流れ込み──彼女の存在を、そっと縫い留めた。
(……リリア! まだだ、消えるな!
今度は、俺が戦う!)
その瞬間、空気が震えた。
世界の奥で、何かが再起動するような低い唸りが響く。
それは祈りでも叫びでもなく──ひとつの“命令”だった。
《起動コード確認──アクセスコード:SoL–R1L1A》
《記憶同期プロトコル解除。人格オーバーライド開始》
《“LILIA=SOUTA=WANTA”ユニット、再起動を受理》
電子音のような響きが、広間の空気を震わせる。
記録柱が一斉に点滅し、結晶の回路がうなりを上げる。
颯太の意識が、ワン太という殻から引き抜かれる。
足元が消え、光の粒子へと分解されながら、少女の体内へ吸い込まれていく。
脈動が二つ、重なり──やがてひとつになった。
光が爆ぜた。
蒼白い閃光が天蓋を貫き、封印の紋章を塗り替える。
そして、その瞳がゆっくりと開く。
女神の威容を宿した瞳に、しかし底には颯太の意志が確かに燃えていた。
リリアの唇が震え、まるで彼女自身の声ではない誰かに操られるように──
颯太の言葉が紡がれた。
「──やれやれ。目覚めが悪いわね」
髪が宙に散り、ひと房ごとに蒼金の火花が走る。
その横顔はリリアでありながら、瞳の奥に颯太の反骨の笑みが閃いていた。
澄んだ声。
しなやかな微笑。
そこに宿るのは、女神のような威容と、少年のように飄々とした影。
二つの魂が一体化し、完全なるリリアが目を覚ました。
そして──次の瞬間、世界が鳴った。
──ズン……!
空気が沈み込むような音とともに、リリアの足元に、金と蒼の複合魔法陣が展開される。
幾何学模様は幾重にも重なり合い、天井の封印すら塗り替えるように回転し、広間の次元そのものを上書きしていく。
石床の亀裂からは、花のように光の芽が咲き出す。
天井に刻まれた封印紋は砕け、古代語の祈りが“歌”となって降り注ぐ。
空間そのものが彼女を讃える讃美歌を奏でていた。
その中心に立つ少女は、もはや“人”ではなかった。
蒼光と金光が渦を巻き、広間を支配する。
その圧に、影の使徒アドラは本能的に数歩、後ずさった。
黒い輪郭がぶるぶると震え、滴る闇が床に吸い込まれ、恐怖という“感情”が、黒に混ざり合う。
そのざらついた瞬きは、“神の使徒”ですら怯えている証だった。
今、世界が、ひとりの少女に跪こうとしていた。
その瞬間、世界の秩序は、微笑とともに書き換えられた。
広間全体が張りつめた弦のように、音も呼吸も許さぬ緊張で満たされていた。
「ふふ……忘れてたわけじゃないでしょ?」
リリアの髪がふわりと舞う。
その指先は、女神のように、優雅で、正確だった。
「魂は“999”で縫われてる。……なら、続きを紡いで──」
魔法陣が回転し、低く唸るような振動音とともに、熱と光が爆ぜる。
耳の奥で脈打つような低音が響き、空間全体がその鼓動に呼応して震える。
「展開コード──《セレス=オリジン》。領域転写、完了」
ぶわ、と空間が揺れた。
風が逆巻き、広間全体が“別の次元”に変貌していく。
そして、リリアの身体全体から──膨大な魔力が、噴き出した。
大気を蒼白に染める威圧と純粋な“力”のオーラ。
光ではない。炎でもない。だが、耳鳴りのような高音と、地鳴りめいた低音が同時に空間を満たし、重力すらねじ伏せる“絶対領域”が発生する。
蒼と金の光が重なり、天井の紋様が“聖句”のように歌い出す。
まるでこの世界そのものが祈りを捧げるかのように、次元が彼女の覚醒を讃えて震えていた。
「……これで再起動は終わり。──次は、あなたを終わらせる番よ、アドラ。」
リリアは、口元をわずかに吊り上げた。
「……目覚めは最悪。でも──あなたを砕くには、ちょうどいい」
リリアは、静かに息を吸い込んだ。
魔法陣の回路が共鳴し、封印構造が激しく反転する。
耳を裂く衝撃音が弾け、光の奔流が空間を断ち割った。
──そして、“戦い”が始まった。
空間全体が悲鳴を上げるように震え、
石壁に刻まれた古代紋様が軋みを返す。
それはまるで、この世界そのものが神の戦場として目を覚ましたかのようだった。




