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『第九話・2:幻の重なりと、二重の鼓動』

挿絵(By みてみん)

リリアがテーブルに突っ伏して嘆く中、セラフィーはひとつため息をつき、パンにそっとバターを塗り直した。

その手つきはいつもどおり穏やかで──けれど、その視線だけが、どこか遠くを見つめていた。


パン切り台に残るパン屑を軽く払う仕草は、まるで心のざわめきを片隅に追いやるようで、静かな決意を滲ませていた。

そして彼女は、静かに立ち上がると、パンくずを払って席を後にする。


……焼き上がったパンの匂いが、まだ温かい空気に溶けていく。

その香りが遠のくほどに、通路の静けさがゆるやかに満ちていった。

高い天井の隙間から差し込む光が、床の古い石目を淡く照らし、

風がステンドグラスを揺らすたび、七色の欠片が彼女の足元にこぼれた。


壁に飾られた燭台の炎が細く揺れ、セラフィーの横顔に儚い陰影を落とす。

祈祷室の手前で立ち止まり、セラフィーは小さく目を伏せた。

その瞬間、光と静寂が、ひとつの祈りの形になった。


(……リリアが言ってたでしょ。“もう一人のリリアがいる”って)


(最初は荒唐無稽だと思った。でも……確かに、あの子の魔素には、別の“干渉痕”が残っていた)


祭壇脇の水晶が、かすかに青白く瞬いた。

その光は、水面に落ちる石の波紋のように、時の奥へ奥へと揺れ広がっていく──

まるで“もうひとつの時”が、静かに呼吸を始めたようだった。


(……あれは“転移”なんかじゃない。

意識も記録も肉体さえも──一枚の頁に、別の物語がそのまま刷り込まれたような痕。

まるで、ひとつの楽譜に二つの旋律が無理やり刻まれ、

和音にも不協和にもなれず、ただ微かな震えとして響き続ける──

世界にたった一度だけ鳴る“幻の和声”。)


(入れ替わりではなく──ふたつの存在が、一瞬だけ同じ紙に描かれた“幻の重なり”。)


(その由来が時の分岐か、未来からの囁きなのかは分からない。

ただ、人の呪いが及ぶ範囲を、とうに踏み越えた光景──それだけは確か。)


指先が胸元へ滑り、鼓動を確かめる。

古びたタペストリーに目をやりながら、セラフィーはふっと笑った。

その笑みは、慈母の祈りのように柔らかく──けれど同時に、遥かな時を一人歩む者の孤独を忍ばせていた。

祈りの沈黙が、光の粒となってゆっくりと空へ昇っていく。


(……もしかすると、“昔のリリア”は──何かの理由で、自分の魂をあのぬいぐるみに託したのかもしれない)


(命を残すためだったのか、あるいは願いを伝えるためだったのかは分からない。

 けれど、確かに“誰か”の温もりが、あの中に生きている。)


(だから、いまのリリアが抱いているのは、ただのぬいぐるみじゃない。

 ──もう一人の昔の彼女、その“続きを生きる存在”。)


(そう考えると、あの子がときどき見せる仕草や言葉の端々に、“昔のリリア”の影が滲む理由も、ようやく腑に落ちる……)


それは記憶を超えた楽器。

時を渡る指が触れれば、誰かの祈りが共鳴し、

消えた旋律が再び音になる──魂のレコード。


セラフィーは、足元に差し込む光を見つめた。

石畳に落ちる光の筋は、まるで未来へと続く道しるべのようで、

その瞳に、一瞬だけ“まだ名もない影”が映り込む。


(もし本当にそうなら──いまのリリアは、“昔の彼女”の想いと静かに響き合いながら生きているのかもしれない)


(戦うためなのか、それとも、“彼女”が誰かを救うために残した祈りなのか……)


(……まったく。あの子自身は、そんな大きな流れの中にいるなんて、ちっとも気づいてないんだから)


ふっと小さく息を吐き、肩の力を抜く。

その吐息は、祈りと溜息のあいだにあり、

光の中でひとつの音となって、静かに溶けた。


(まあ──気づかない方が、今のあの子には幸せなのかもしれないけど)


セラフィーは、そっと微笑んだ。


その眼差しには、女神のような穏やかさと、未来を測る者の冷徹さ──

ふたつの光が、ゆるやかに重なって揺れていた。



一方その頃、リリアはパンの籠を抱きかかえながら、「まだ残ってるといいなぁ……♡」と頬をふくらませていた。

口元には粉砂糖をつけたまま、指先で慌てて拭おうとしてさらに広げてしまう。

笑い声が、礼拝堂の天井に弾み、ゆるやかに奥の回廊へと届いていく。


(……おいおい、粉砂糖まみれのまま走るなって。絶対床ベタベタになるやつ……)


ぬいぐるみの中で、颯太が小さくぼやく。

けれど、その声の底には、どこかくすぐったいような温もりがあった。


祈祷室の静けさの中で、セラフィーはその笑い声をふと耳にした。

(……ほんと、手のかかる子。

 でも──あの無邪気さこそ、きっとこの世界がまだ“救われている証”なんだろう)


その声に触れた瞬間、彼女の胸に残っていた孤独な思索は、

まるで夢の名残のように静かに溶けていった。


鐘の音が、遠くで鳴る。

空気の震えが粉砂糖を揺らし、祈りと笑いがひとつに溶け合う。


──その瞬間、世界は、確かにひとつの和音だった。

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