『第八話・5:二重の鼓動、揺れる馬車の中で』
短い沈黙が、ふたりの間に落ちる。
その沈黙は、ただ空白であるよりもむしろ、互いの心臓の鼓動を浮かび上がらせる膜のようだった。
「—— あの敵が襲ってきたとき……」
颯太は小さく息を呑み、窓の外に視線を逃がした。
「最初は、ぬいぐるみの中から全部見てたんだ。あの子が、必死に立ち向かって……でも、限界で……もう動けなくなって」
胸の奥に、炎が唸る音と、石畳を踏み鳴らす衝撃が蘇る。
それは耳で聞いた記憶というより、肉体を持たぬ存在が「心臓の奥」で感じ取った生の振動だった。
「その瞬間、世界がぱきんって割れたみたいに、音も光もぜんぶ消えたの。
……次の瞬間、真っ白な中で、誰かの手に引っ張られる感覚があって──」
言葉を吐き出すたび、その光景が蘇り、皮膚の裏側を焼く。
「最初は、世界の重さが自分のものじゃないみたいで、まぶたを開けても“どこから見ているのか”さえ曖昧だった。」
「でも、呼吸をひとつするたびに感覚が少しずつ繋がって、やがて──この手も、この足も、確かに自分のものだとわかったの。」
リリアの言葉が終わると、馬車の中に静かな余韻が満ちた。
その沈黙の中で、セラフィーのまつげがわずかに震えた。
セラフィーは、わずかに瞬きをし、視線を外さぬまま頷いた。
その頷きは、拒絶でも同情でもなく、ただ真実を受け止めようとするものだった。
しかし彼女の指先はわずかに震え、膝の上で重ねた手には力がこもっていた。
窓に視線を逃がしながらも、唇は何度か動きかけては言葉にならず、そのたびに小さく息を呑み、指先だけが彼女の迷いを語っていた。
その沈黙の中には、祈りと逡巡が絡み合っていた。
信じたい気持ちが胸を温めるほどに、指先の震えは冷たく強くなる。
その矛盾こそが、彼女の“人としての熱”だった。
やがて彼女は、ふっと息を吐き、胸の奥で何かを整えるように目を伏せた。
言葉を探していた沈黙が、ようやく形を得る。
「……混乱しないように、呼び分けることにするわね。
今ここにいるあなたは、これまで通り“リリア”。
そして──今のあなたじゃない子を、“あの子”と呼ぶことにする。」
声は静かだった。けれど、その静けさは諦めではなく、受け入れるための勇気の音だった。
瞳がわずかに揺れる。
それは弱さではなく、強さの中に生まれた一瞬の波。
その震えを抱えたまま言葉を選べたのは──
彼女の中で「信じたい」という想いが、恐れよりもほんの少し強く息づいていたからだった。
「で、あの子は、今どこにいるの?」
セラフィーの問いかけに、リリアは一瞬言葉を探し、苦笑いのような息をもらした。
まぶたの裏で、ぬいぐるみだった自分の頭を、あの小さな手が何度も撫でてくれた記憶が浮かぶ。
その感触が今も、胸の奥にやわらかく残っている。
それを思い出しただけで、喉の奥が少し熱くなった。
「……たぶん、まだ中にいる。
でも、今は眠ってるんだと思う。」
セラフィーは小さく息を吸い、視線をほんの一瞬だけ伏せた。
理解と戸惑いが、そのまなざしの奥で静かに揺れる。
颯太は肩をすくめ、少しだけ照れたように続けた。
「簡単に言うと──あの子が気絶してる間だけ、わたしがこの体を借りられるって感じ。
あの子が起きてるときは、ちゃんと“リリア”の中身はあの子だよ。」
言い終えると、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
それは深刻な告白というより、淡々と事情を説明しただけの声色だった。
セラフィーは、張り詰めた気配をほんの少し和らげ、小さく頷いだ。
けれどその胸中には、形のないざわめきが渦を巻いていた。
――自分が安堵したいがために「信じる」という言葉を選んだのではないか。
もしそうなら、このぬくもりは蜃気楼に過ぎないのではないか。
そう考えるほどに、胸の鼓動が落ち着かなくなる。
呼吸は穏やかなのに、心臓だけが自分の意思を無視して速く打つ。
セラフィーはそっと息を吐き、窓の外へ視線を逃がした。
その胸の奥で響く鼓動は、どこか他人のもののようでもあった。
一方、リリアの胸の奥にも──二つの鼓動が重なり合う感覚が、まだ微かに脈を打っていた。
自分がこの体を動かしているはずなのに、そのさらに奥で、もうひとつの静かな息づかいが続いている。
それはまるで、眠っているはずの“あの子”の気配が、薄い膜を隔てて背中越しに寄り添っているようだった。
手を動かすたびにそのぬくもりが指先へ流れ、歩くたびに、足元の重さがわずかに二重になる。
二つの存在が同じ体の中で呼吸を揃えている──そんな確かな実感。
その“二人分の感覚”が、リリアという輪郭を少し曖昧にしながらも、不思議な安らぎを与えていた。
まるでずっと前から、この身体は二人でひとつのものだったかのように。
ときおり、胸の奥で鼓動が重なり、喉の奥まで震えが伝わる。
その瞬間、胸の内側が柔らかな光で満たされるように、静かな安心が広がった。
けれど同時に──もし完全に溶け合ってしまったら、自分という境界が消えてしまうのではないか。
そんな予感が、冷たい指先のような感触で背骨を撫でていった。
馬車は、そんなふたりを包み込むように、ゆっくりと坂道を登っていく。
革の座席は体温を吸い、ランプの炎はかすかに油の匂いを漂わせながら、橙の光を揺らしていた。
規則正しい車輪の音と柔らかな揺れが、互いの沈黙をやさしく撫でていく。
窓の外では、夜がまだ生まれかけていた。
紫と金のあいだで風が小さく息をし、遠くの森影がゆっくりと群青へ溶けていく。
その“夜のはじまり”が、静かにふたりの鼓動を重ね、ひとつの音にしていった。
セラフィーは、窓の外を見ているふりをしながら、時折そっと視線をリリアへ戻す。
安堵の奥に、説明のつかないざわめきがあった。
──この隣にいる“リリア”は、本当に安全な存在なのだろうか。
その問いが胸の奥でかすかに揺れたが、言葉にはならなかった。
ただ今は、この温もりを手放したくなかった。
そのとき、窓の外で星が瞬いた。
ほんの一瞬──胸の奥でも、同じ光が瞬いた気がした。
それは、外の星と内なる鼓動が呼応したような、淡い錯覚。
けれど次の瞬間、確かに“何か”がリリアの中で息をした。
その光は、胸の奥に残響のように広がり、彼女は小さく息を吸い込む。
夜の空は、ゆっくりと群青に染まりながら、未来を孕んでいた。
その星は、ふたりの心臓のあいだで静かに脈を打ち、
まだ名もない運命のはじまりを、そっと照らしていた。




