『第八話・4:三年の沈黙を破る声』
颯太の心臓が、リリアの胸の内で大きく跳ねた。
体温が一気に上がり、呼吸が浅くなる。
馬車の車輪が刻むリズムが、遠くかすんでいく。
視界の縁が白んで、鼓動の音だけがやけに大きく響いた。
声を返そうとしても喉が塞がり、胸の奥が焼けるように熱い。
押し殺そうとするほど、女の声色が自然に零れ出しそうで──その事実に自分自身が震えた。
「ふふ……隠すの、上手だと思うわ。でも──」
セラフィーはゆっくりと口元をほころばせた。
その笑みは柔らかいはずなのに、瞳だけは鋭く、彼の奥底をまっすぐ射抜いている。
「さっきの封印……教会で会った“あの時のリリア”の魔力量じゃ、まず不可能よ。すぐにわかったわ。
魔素制御、手順の最適化、術式の最終調律……どれも、あの子の魔力でできるはずがない。」
言い切ったあと、セラフィーはほんの一瞬、言葉を探すように目を伏せた。
わずかな沈黙が、車輪の軋みと重なり、空気を細く震わせた。
その静寂は、呼吸をも縫い止めるように鋭かった。
その声音は落ち着いていたが、ひとつひとつの言葉を慎重に選び取っているのがわかった。
決して問い詰めるためではない。
ただ真実を見失わないために、確かな線引きを置こうとしているのだ。
問い詰めたい衝動と、信じたい心とが、彼女の胸の奥で拮抗している。
リリアは、ゆっくりと視線を落とした。
まつげが長い影を頬に落とし、その影が馬車の灯りに揺れていた。
影の揺れが、自分の内面の揺らぎと重なり、妙に生々しく感じられる。
その伏せ目は、無意識のうちに胸の前で指を組む仕草を伴っていて──自分が自然にそう動いてしまったことに、背筋が粟立った。
やがて、“リリア”は、小さく息を吐き、低く掠れた声を零した。
「……うん。やっぱり、ばれてたんだね。」
セラフィーはわずかに目を細める。
「当然よ。最初から全部とは言わないけれど……さっきの封印を見て、確信したの。
教会で会った“あなた”は、私の知っているリリアじゃなかったって。」
そして、言葉を少しだけ切ってから、熱を帯びた声で続けた。
「……じゃあ、今まであなたは──どこにいたの?
突然いなくなってから、もう三年が経ったのよ。行方もわからないまま……あなたがどこで、何をしていたのか、全然わからなかった。」
「どれだけ探して、どれだけ心配したか……夜毎に夢で名を呼んでも、返事はなくて……私、本当に壊れそうだったのよ。」
「あの頃、私は毎晩教会に籠もって祈ったわ。
蝋燭の炎に照らされながら、消えたあなたの影を追いかけるように。」
「雨の日には、ずぶ濡れになって石畳に跪いて名を呼んだ。返事なんて返ってこないと分かっていても、それでも声を枯らして呼び続けるしかなかったの。」
「街を歩けば、あなたに似た背中を見つけては駆け寄って……でも振り返った顔はまるで知らない人。
そのたびに胸が抉られるように痛んで、それでも私は探すのをやめられなかった。」
「三年の間、眠るたびに夢であなたの姿を見て、目を覚ますたびに消えている現実に突き落とされた。」
蝋燭の灯が泣き声に揺れて滲んだ夜。
鐘の音が遠くで鳴るたびに、返らぬ名を呼び続けた雨の日。
そのすべてが彼女の声に重なり、祈りと呪いの狭間を震わせていた。
セラフィーの声は震えていた。唇を噛む仕草がわずかに見え、膝の上で握られた両手の指先が白くなっている。
その視線は怒りとも安堵ともつかない色で、逃げ場を与えないままリリアを捕まえていた。
リリアは、ほんのわずかに視線を伏せる。
その仕草は、誰かが“女の所作”を学んでなぞったような、少しぎこちない優しさを帯びていた。
「……わたしの“中身”は……ずっと、あのぬいぐるみの中にあったんだと思う。
……でも、その間、何をしていたのか……正直、ほとんど覚えてない。
ただ……ずっと、あの子のそばにいたような気がする。」
淡々とした言葉の響きに、かすかな痛みが混じる。
それはただの事実説明ではなく、重く胸にのしかかる告白であり、どこか贖罪にも似た音をしていた。
短い沈黙が、ふたりの間に落ちた。
馬の蹄が遠くで響き、橙色の灯が窓に揺れた。
その沈黙は、言葉を待つものではなく──
互いの胸にまだ残る祈りの名残を、静かに確かめているようだった。




