『第八話・3:沈黙のあとに訪れた問い』
街へと帰る馬車は、ゆるやかな傾斜をがたごとと登っていた。
車輪が踏む土の振動が、板張りの床を通じて足元から伝わる。
革の座席はじんわりと温く、木枠は小さく軋み、外からは馬の鼻息と蹄の音が重なって響いてきた。
窓の外では、燃え残った丘が少しずつ遠ざかっていく。
その向こうに沈みかけた陽が、やけに淡い橙色を残していた。
戦いの煙はもう消えている。けれど、ほんのり焦げた匂いがまだ風に混じっていて、それが胸を撫でるたび、戦場の残響が微かに疼く。
安堵と疲労がまだ抜けきっていないことを、いやでも思い知らされた。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
ただ車輪が土を噛む音と、互いの呼吸が重なるだけ。
けれどその沈黙は重苦しくはない。
静寂の中に、命がまだここにあるという確信が滲んでいた。
戦いを生き延びた者にしか持てない、やわらかで温い静けさだった。
ゆったりとした揺れは、どこか母に抱かれているような錯覚さえ呼び、気づけば指先や肩のこわばりまでほどけていく。
その解放感は、仕草や座り方までも柔らかく染め変えていた。
颯太──いや、リリアは、セラフィーの隣で膝の上に指を揃えて座っていた。
背筋は自然に伸び、膝も内側できちんと閉じている。
自分でも気づかぬうちに、呼吸に合わせて姿勢が磨かれ、視線や首の傾きさえも“女性”の所作に近づいていた。
──気づけば、声も、仕草も、瞬きの間合いすら、完全に“女の子”のものになっていた。
しかもそれは作った演技じゃない。反射に近い自然さだった。
まるで自分の中に眠っていた“誰か”の癖が、呼吸に混じって浮かび上がってきたみたいに。
甘美な自然さ。けれど同時に、背筋を冷やす怖さもある。
心地よさの裏で、気づけば戻れぬ川を渡ってしまったような──そんな予感が滲んでいた。
(……オレ、このまま女の子の体で生きてくことになるのか?)
冗談っぽく思おうとした。だが胸の奥はざわついていた。
焦りというより、得体の知れない温かさ。
まるで、この体が“借り物”じゃなく、最初から自分のものだったかのような錯覚。
その錯覚に身を委ねれば、男としての記憶すら少しずつ溶けていくんじゃないか──。
甘美と恐怖のはざまで、胸が震えた。
小さな吐息が窓ガラスを曇らせる。
曇りが消える前に、横から視線を感じた。
橙色の光が窓をすべり、影がセラフィーの横顔を撫でていく。
静かに揺れる睫毛、きゅっと結ばれた唇。
祈りの像のように沈黙していたが、その沈黙は問いを孕んでいた。
声にならぬ圧が頬を刺し、空気さえ呼吸を忘れるほど、彼女の気配が濃くなる。
──そして、次の瞬間。
「ねえ、リリア」
セラフィーの声はやわらかかった。けれど、真っ直ぐだった。
温もりの奥に鋭い芯が潜んでいる。
まるで、この一言を切り出すためにずっと隙をうかがっていたかのような──ためらいのない呼びかけだった。
車輪の音さえ遠のき、馬の吐息もかき消える。
世界に残ったのは、彼女の声と鼓動だけ。
「……教会で会った、あなた。“中身”は、別だったのよね?」
リリアの心臓が、一瞬だけ跳ねて止まった。
時間の継ぎ目が裂けるように、現実の幕が少しだけめくれた気がした。
言葉よりも先に、喉の奥で震えが広がっていった。




