『第八話・2:その微笑みの奥に──揺らぐ影』
「……リリア!」
砂埃を蹴りながらまっすぐ駆けてくるその姿は、どこか夢の中で見る“懐かしさ”のようで、リリアの瞳が少し潤んだ。
リリアは、ほんの一瞬、胸の奥がきゅっと鳴るのを感じた。
「……おそいよ。もう、ぜんぶ終わっちゃったのに」
冗談めかした声は、いつもよりちょっと幼かった。
けれどセラフィーはなにも言わず、ただ抱きしめた。
腕に収めた背中は思ったより熱くて、心臓が不意に跳ねる。
「……ほんとに……無事で、よかった……」
耳元で掠れる声。震えは声だけじゃなく肩からも伝わってきた。
その揺れに触れるたび、リリアの中の颯太は胸の奥にじんと熱いものを抱え込んでしまう。
(……こうして抱かれると……“リリア”でいるのが嘘じゃなくなってくる)
その温もりに背中を預けながら。
「……うん。封印は、たぶん、ほぼ終わったよ。」
リリアの指先が《封印の石板》を撫でる。
崩れかけた紋様の奥に、朱の残光が点のように灯り、かすかに息づいていた。
消えそうで消えない、最後の息継ぎのような光。
焦げた匂いに混じる鉄と灰。
でも、その光だけは匂いを押し流すみたいに凛としていた。
「でも──」
「……奥に、まだ残ってる。静かだけど、息してるのがわかる」
セラフィーが顔を上げたときには、リリアはもう手をかざしていた。
「最後の“一手”は……わたしの声で終わらせたいから」
息を吸い込むと、指先から光が滲む。
空気が張りつめ、風鳴りも途切れた。
「カルマ・輪葬──完式」
石板の残光が弾け、朱の光糸が縫い合わせる。
高い鈴音が響き、光が円環を描いた。
……その震えがリリアの胸に鼓動みたいに響く。
風がやわらかく吹いた。
焦げ跡の匂いを流し、遠い草の匂いまで運んでくる。
焼け跡に、はじめて“明日”の気配が差し込んだ。
石板の紋がひとつ、静かに脈を打つ。封印機構が再び心臓のように鼓動し始めた。
リリアは舞うように腕を引く。
花びらが風に溶けるみたいな仕草。
そこには戦士じゃなく“少女”のしなやかさがあった。
セラフィーは目を見張り、信じられない顔になる。
「……信じられない。人の身で、ここまで辿り着けるなんて……」
驚きと、ちょっとした怖れ。
彼女の手が無意識にリリアの腕を強く掴む。
「……うん、そうだけど……」
リリアは息を吐き、目を逸らした。
(普通の術者なら第三節で魂ゲージ真っ赤、即落ちコースだろ。
でもオレは……9999時間分のやり込み。
MP管理も詠唱タイミングも身体に刻んである。経験値のゴリ押し。)
(……これだけは、オレにしかできない。
“勇者リリア”として、生きたオレの戦い方だ)
セラフィーの瞳には、安堵と“信じたい”という祈りが宿っていた。
その光に触れた瞬間、颯太の中の言葉が止まる。
理屈は吹き飛び──
“リリアでいる必然”を、甘く突きつけられる。
(……ああ、だからオレは。この人の前では、“リリア”でいたいんだ)
封印の余熱が風に溶けていく。
残ったのはひとすじの光。
セラフィーは、リリアの髪をそっと撫でた。
指先はまだ冷たいのに、そこから滲むぬくもりは、まるで子守唄の調べのようだった。
「……よく、がんばったわね」
自分の声が震えていると気づく。
返ってきたリリアの声は穏やかで、けれどどこか遠い。
「……怖かったの。何度呼んでも、返事がなくて……」
抱きしめた身体は確かに熱を持つ。
けれどその奥には、静かな影が眠っていた。
セラフィーですら触れられない、淡い深み。
胸元でリリアの鼓動が鳴る。
生を告げる音。けれど脆く、消えそうで──だからこそ愛おしい。
「……ねえ、リリア。あなたはいったい、どこまで一人で背負うの……?」
それでも、セラフィーは抱きしめる腕を緩めなかった。
彼女が消えてしまわないように。
彼女が“ここにいる”と、自分に言い聞かせるために。
小さく囁く。
「……これからは、一緒に……ね」
リリアはわずかにまばたきをした。
それが返事の代わりだった。
微笑みは眩しくて、でも少し切なくて。
その光の奥で揺れた影が、“颯太”という名を持つものだと、セラフィーはまだ知らない。




