『プロローグ 3 : 旅立ちの朝』
リリアに拾われてから、どれくらいの時間が経っただろう。
最初のうちは部屋の隅に転がされていた俺も、いつの間にか彼女の枕元の“指定席”になっていた。
リリアとは、朝も夜も、ほとんどずっと一緒にいた。
目を覚ませば、彼女の寝息がすぐそばにあって、
彼女が台所に立つときは、いつも甘い匂いと一緒に、俺は測りの上にちょこんと座らされていた。
「動いちゃダメだよ、ワン太。バターの量、ちゃんと見るんだから♡」
(……なあ、それ俺の仕事じゃなくてキッチンスケールの役目じゃない?)
(てか、お前のスイーツ、毎回“目分量+祈り”で出来てんの俺知ってんだからな)
リリアはスイーツが大好きだった。
食べるだけじゃなく、作るのも好きだった。
砂糖の量を間違えて焦がすことも多かったけれど、
そのたびに「これは失敗じゃなくて、新作だよ♡」と笑っていた。
(……お前の新作、だいたい炭だよな)
そう思いながらも、その笑顔を見るたびに胸の奥が温かくなっていく。
不思議と、それだけで十分だと思えた。
そんな日常の合間に、リリアはよく庭に出ていた。
朝露が残る時間、剣を手にして──誰に教わったでもない構えを繰り返す。
木製の杭を相手に、ぎこちないけれど真っ直ぐな一太刀。
そのたびに風が鳴り、草の上に光が散る。
時々、彼女は手を前に出して呟いた。
「……ライト、灯って」──すると、指先に小さな光球がぽっと生まれる。
風魔法を唱えようとして、爆風でスカートをひっくり返したこともあった。
(……いやそれ、“修行”というより“事故現場”じゃねえか)
(てかスカート押さえろスカート! 村の鳩が全部墜落してんぞ!)
けれど、そうやって笑いながら、少しずつ剣も魔法も上達していった。
何より、あの真剣な横顔が──まるで世界の光そのものみたいだった。
家には、両親の気配がなかった。
夜、雨音が屋根を打つたびに、リリアは俺を胸に抱き寄せて眠った。
その体温は小さくて、けれど確かに“生きている”ぬくもりだった。
(……この温度だけは、どんなスキルでも再現できねぇな。)
(……お前が笑うたびに、世界の形が変わっていく気がするんだ。)
(俺が“勇者”だった頃より、ずっとまぶしい。)
雨の音と、呼吸のリズムが、ひとつに溶けていく。
このぬくもりがある限り、俺はまだ“生きてる”って言える気がした。
そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
時間の感覚なんて溶けていき、“幸せ”という言葉すらもう意識しなくなっていた。
──だからこそ、気づかなかったのかもしれない。
あの小さな変化に。
その朝も、いつもと同じように光が差して、湯気の立つカップが並んでいた。
テーブルの上を、ゆらゆらと白い蒸気が漂う。
ただ、リリアの横顔にほんの少しの“間”があった──それが、唯一の違いだった。
そして、その朝の光を切り裂くように、リリアの声が響いた。
「ねえ、ワン太。……村を出よう。旅に出たいの。」
(……は? おいおいおい、今なんつった!? “出よう”って……お前、犬の散歩の延長で国出る気か!?)
湯気の向こうで、リリアがまっすぐこちらを見つめていた。
「……本気だよ。」
その声の余韻が、部屋の静けさに溶けていく。
気づけば、リリアはいつもより静かな笑顔で、肩に小さなショルダーバッグをかけていた。
中には衣服と、水筒と、焦げたクッキー。
そして、俺。
その傍らには、古びた大剣が一本。
刃こぼれしたそれを、リリアは包帯のような布で丁寧に巻き、背中にしっかりと背負った。
小柄な身体には少し大きすぎるその剣が、朝の光を受けて静かにきらめいた。
「剣だけじゃないよ。ちゃんと、光の呪文も覚えたんだから。」
そう笑ったその顔が、ほんの少しだけ“勇者”に見えた。
(……いや待て。なんで俺、当然のように“荷物”カテゴリに入ってんだ?)
(勇者だった俺が、まさかの“ショルダーバッグ常駐ぬいぐるみ”かよ!?)
(誰がこんな屈辱仕様にしたんだ……運営、出てこい!!)
バッグの隙間から漏れる朝の光は、まぶしいほど新しかった。
森の向こうで風が鳴り、鳥の声が重なって世界が息を吹き返す。
(……おい、マジか。これもう、旅立ち確定演出だろ……)
(まさか、こんな形で“再スタート”になるとは……)
(……っておい! RPGの旅立ちって、普通、王様から金もらったり使命与えられたりするやつだろ!? 前振りゼロで行くの俺らだけだぞ!)
リリアの足取りは軽く、俺の心はまだ現実を受け止めきれなかった。
だけどその歩調が、まるで音楽みたいに一定で──聴いているうちに、不安よりも別のものが胸に芽を出した。
なぜか、心の奥の綿が少し熱を帯びた。
「行ってみたい場所があるの。探したいものもある。
森を抜けて、山を越えて……もっとずっと遠く、世界のどこかに。
……なんかね──呼ばれてる気がするの。」
その声は不思議なくらい穏やかで、
けれど、その奥にかすかな寂しさが滲んでいた。
(……おい、まさか“おかしマシマシ通信”の特集で見たザッハトルテが食べたいとか、そういう話じゃないよな!?)
「もう、帰ってこられないかもしれないけど……それでも、行きたいの。」
(……おいちょっと待てリリア。いや、それ間違いなく死亡フラグだって!!)
彼女は振り向いて笑った。
「大丈夫。だってワン太がいるもん♡」
(……あぁ、もう。そういう顔されたら、誰が止められるんだよ)
朝の光が、彼女のピンクの髪を透かして金色に滲んだ。
世界の端が、ゆっくりと旅立ちの色に変わっていく。
カーテンが風に揺れ、部屋の光が床を滑った。
ふたりで暮らした時間の残り香が、まるで手のひらでそっと背中を押してくる。
その瞬間、俺は悟った。──あの日々は終わりじゃない。始まりの記憶だ。
ドアが閉まる音のあとに残ったのは、甘い匂いと、まだ温もりの残る静寂だけだった。
外では、もう朝の風が吹き始めていた。
それは、世界が再び息をする音だった。




