『第三話・5: 羞恥の聖女、扉の前で止まる』
街の中は、商人たちの威勢のいい声と、子どもたちのはしゃぐ笑い声、焼きたてのパンや香辛料の匂いが入り混じり、石畳の路地ごとに違う彩りを放っていた。
色鮮やかな布は陽光を反射して眩しく、軒先で吊るされた金属器具がきらりと光を散らす。石畳には昼の熱気がこもり、立ちのぼる埃の匂いが鼻を刺す。鐘楼の影が街並みを区切り、翻る旗が夏空に鮮烈な模様を描いていた。
──けれど、馬車から降り立ったリリアにとっては、その光景はまるで磨りガラスの向こうの絵巻物のようだった。
音も匂いも確かにそこにあるのに、遠い世界の出来事のようにぼやけて胸に届かない。
笑い声も鐘の音も祝祭の喧噪にしか聞こえない。自分だけが異物で、裸のまま処刑台に立たされているような錯覚だった。
リリアは、はだけた水着姿のまま、そっとワン太を胸に抱きしめた。
ぬいぐるみの丸い輪郭だけが、唯一の盾であり、心の支えだった。
背を丸め、足先から慎重に石畳へ降り立つ。熱の残る石がじり、と素足に伝わり、「現実」という名の烙印を押すようだった。
「……ひっ……」
たった一歩。
その瞬間、背筋に電流のような緊張が走った。
足音。視線。ざわめき。
──空気が、変わった。
振り返らなくてもわかる。
今、確実に何十もの視線が自分を追っている。
それは好奇心とも嘲笑ともつかない、しかし確かに形を持つ「人の意識の重み」だった。
冷たい指先のように、その重みは形なきままリリアの肌を這い、心臓を直接つかんでくる。
「なにあれ、あんな格好で……」
「え、昼間からビキニ? まさか……」
「宣伝用の子か?」「いや、罰ゲームだろあれ」
「……おい、子どもが指差して笑ってるぞ」
(いや当然だよ! 馬車からビキニで降りたら、そっち系の仕事に見られるって!!)
息を詰め、視線を足元に落とす。
陽光が肩をなぞり、白地にピンクのリボンが踊るフリルだらけの水着を、まるで「見世物」のように照らし出す。
胸元のギャザーは“見せるため”に谷間を寄せ、その奥に汗の粒が一粒、また一粒と光を反射する。
──宝石を埋め込まれた谷間。本人の意志など一切関係なく、人目を吸い寄せていく罠。
肩紐がずり落ちかけるたび、リリアは震える指で直そうとする。
だが、その仕草すら視線を呼び込み、羞恥を増幅させる罠に変わっていく。
「こ、教会……教会は……」
リリアは視線を逸らし、足早に石畳を踏みしめる。
歩くたびにリボンが暴れ、太ももをぴしぴしと打つ。
その乾いた音は、周囲のざわめきに混じり、羞恥心の火に油を注ぐ。
(てか石畳の反響でパンパン音するの、羞恥効果ブーストすんな!!)
(お願いだから! 俺だけ転送してくれませんか!? 神様ァ!!)
(これ配信されてたらBAN確定だからな!? 運営ォ!! モザイク機能実装しろォ!!)
通りすがる人々が、必ず一度は振り返る。
声を潜めた囁き、笑いを噛み殺した息、わずかなため息。
それらが渦を巻き、押し寄せる波のようにリリアの背を包囲していく。
老婆は青ざめた顔で胸の前に十字を切り、まるで「悪魔の顕現」でも見たかのように祈りを捧げる。
若い青年は顔を真っ赤にして鼻を押さえ、鼻血を垂らしながら慌てて背を向ける──が、ちらちらと振り返らずにはいられない。
「……あった……!」
視線の先に、灰色の石で組まれた礼拝堂が現れた。
尖塔は青空を突き、古びた木の扉は外界を拒絶するように固く閉ざされている。
ここが唯一の救い──呪いを解く扉。
だが──
リリアは胸元を覆うように布をつかみ、小さく震える指先で扉を見上げる。
足は、扉の手前で止まってしまった。
「だ、だめ……入れない……こんな格好じゃ……!」
(いや、それは来る前に気づこ!?)
(てかもう十人以上に見られてたから、今さら清純ぶっても遅いから!!)
(しかもここ教会だぞ!? 神官に見せたら“異端審問コース”確定だからな!!)
リリアは、ワン太をぎゅうっと胸に抱き寄せた。
その瞬間──ぬいぐるみの顔が、完全に谷間へ沈み込んだ。
(……不本意すぎるぬくもり……ッ!!)
「……お願い、ワン太……こんなの、もういや……」
その声は、ひび割れた陶器のようにかすかに震え、風よりも弱く、そして何より儚かった。
そして、そのか細い声が路地のざわめきに溶ける刹那──また、あの冷たい視線が背を射抜いた。
群衆の笑いでも祈りでもない、氷のような一点。
リリアは思わず胸の奥を押さえる。心臓が、見えない針で縫いつけられたように動けなくなっていた。
誰かが確実に──この恥辱を狙って見ている。