『第二十五話・6 : 断罪と祝福の鐘』
黄金の六翼が淡く散り、最後の羽根の光が夜明けの霞に溶けると、谷を覆っていた圧力も嘘のように消え去った。
張り詰めていた空気がほどけ、仲間たちが一斉に息を吐く。
セラフィーは剣を下ろし、胸に手を当てて呟いた。
「……心臓、止まるかと思ったわ」
震えを隠すように笑ったが、その瞳には畏れと安堵が入り混じっていた。
「ワイなんか頁がビリビリ破れる寸前やったで!? インクも飛び散って、印刷事故や!!」
ブッくんがばさばさと羽音を立てて大げさに騒ぐ。
「わふっ♡」
ワン太はぽふんとリリアの肩に飛び乗り、安堵のように頬へと頭を擦りつけていた。
リリアは深く息を吐きながら、胸の奥に残る余韻を噛みしめる。
(……よかった。ちゃんと戻れた……。けど──)
霧を裂くように静けさが戻るその時、セラフィーが岩陰にひっそりと咲く花に目を止めた。
「……蒼梢の雫草……!」
淡い青緑の花弁が揺れ、白い露を受けて瞬く。
ひと雫ごとに淡い光を返し、まるで夜明け前の空に最後の星を閉じ込めたかのように、静かな輝きを放っている。
セラフィーは息を整え、膝を折り、指先で茎へと触れた。
摘み取るその所作は、戦士ではなく祈りを捧げる巫女のようだった。
(魂の濁りを祓い、意識を呼び戻す……そんな囁きが、どこか遠い水面から反響してきた気がする)
白光の帳の奥。夢と現の狭間で誰かが灯した言葉が、波紋のように胸に残っている。
記憶ではなく、心の深みに沈んだ幻──けれど確かに、そこに刻まれていた。
(俺自身には、もう必要ないけど──)
(もしかしたら……“創律の檻”に封じられたリリアの魂を、救うためには役に立つかもしれない)
瞼を閉じると、暗い檻の奥に淡い光が揺れていた。
冷たく重たい鉄格子。鎖のような紋様が虚空に浮かび、魂そのものを絡め取っている。
その内側に、かすかな人影。輪郭は曖昧で、今にも溶けそうなのに──それでも確かに少女の面影を残している。
顔を上げぬまま、微かに震える肩。その姿を想うだけで、胸の奥が強く締めつけられた。
掌に収まった雫草は、小さな花にすぎない。
けれど、その一輪を見つめるだけで胸の奥に小さな火がぽっと灯るようで、確かな希望の重みを感じさせた。
(だから……念のため、持っておこう。俺のためじゃなく、リリアの魂のために)
黄金の六翼が消え去った後に残ったのは、燃え尽きた熱ではなく──ひとつの誓いだった。
(必ず檻を砕き──その魂を、抱き返す。
世界を救うためだけじゃない。もう一度、あの子に笑顔を咲かせてもらうために……)
まるでその思いを代弁するかのように、セラフィーが雫草を掲げる。
白光を受けた花は淡く輝き、その姿は希望を示す女神そのものだった。
「わふっ♡」
ワン太がリリアの肩でぽふんと跳ね、短い両腕を広げて抱きつく真似をする。
ぎゅっと綿が鳴り、リリアの頬へと優しい感触が伝わった。
「……ははっ、ありがとね」
思わず笑みがこぼれ、張りつめていた空気がふっと緩んだ。
けれど、笑いと安堵が戻るその中で──胸の奥にだけ、なお打ち鳴らされる鐘の音があった。
(……蒼梢の雫草。これで魂のリリアを救えるかもしれない。けどきっと、これだけじゃ足りない)
(創律の檻は、この世界そのものを縛る牢獄。……解くための鍵は、まだ見つかっていない)
谷にこだまする笑いの下で、胸奥にはなお軋む鎖の響きが潜んでいた。
闇の中で膝を抱えるもう一人のリリア。その姿が消えない限り、真の安らぎは訪れない。
だからこそ──この炎を絶やさない。
必ず檻を砕き、その魂を抱き返す。
それは人を導く祝福の鐘であり、罪を告げる断罪の鐘でもある。どちらの響きに変わろうとも、その誓いは揺るがない。
夜明けの霞が静かに晴れていく。だが世界に残ったのは仲間の声ではなく──ただ一つ、天を震わせる大伽藍の鐘。
その残響は未来を呼び寄せると同時に──胸の奥底へと響き、消えることなく鳴り続けていた。