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『第二十五話・1 : 現実に棄てた温もり、勇者に還る刻』

颯太の意識は、暗い虚無の中に漂っていた。

上下も時間もわからず、ただ冷たい闇が全身を締めつけている。

どれほど経ったのかもわからない。

やがて、その闇が裂けるようにして光が差し――彼は目を覚ました。


そこは現実の世界だった。


「……は、あ……?」


息を整えようと顔を上げたとき、視線の端に鏡が映った。

部屋の隅、ほこりをかぶった姿見。


ふらつく足で近づき、鏡を覗き込む。

映っていたのは――金色でもなければ、光に揺れるピンク髪でもない。

ただ、寝癖で跳ねた黒髪の青年。頬はこけ、目の下には隈が刻まれている。

勇者リリアの輝きとは無縁の、みすぼらしい自分――颯太の姿だった。


(……俺……リリアじゃ……ない……?)


震える指で頬をなぞる。冷たい皮膚の感触が返ってくる。

胸に手を当てても、あの高鳴りも、光の奔流もない。

勇者の剣も、女神の祝福も消え失せ、残ったのは“引きこもり”の青年の鼓動だけ。


(ピンクの髪……もう……どこにもない……)


鏡の中の自分を見つめるうちに、膝から力が抜けた。

ついさっきまで仲間を導く勇者だったはずなのに――今はただ、惨めで弱々しい颯太に戻っている。


八畳の狭い空間は、まるで時間が止まったように淀んでいた。

散らかったカップ麺の容器は乾いたスープを貼りつかせ、積み上げられたゲーム雑誌は端が黄ばんでめくれ上がっている。

机の隅には、半年前に買ったまま封も切っていない医学専門書。

父の背中を継ぐべきだった自分が現実では落ちぶれていることを、何より雄弁に語っていた。


閉め切ったカーテンは昼夜を遮断し、空気は湿った埃の匂いで満ちている。

ベッドの上で、颯太は汗に濡れたTシャツを肌に張り付け、荒い息を吐いた。

その光景のすべてが――英雄リリアであった自分と、惨めな現実との落差を突きつけていた。


視界の先、パソコンのモニターにはログアウト画面。

冷たい文字列で表示されたのは“サーバー切断”。

つい先ほどまでリリアとして剣を握っていたはずのあの世界は、灰色の文字に置き換わっていた。


(……なんでだ……? なんでログアウトしてんだよ……!)


喉がひりつく。

背筋を冷たい汗が伝い、心臓だけがやけにうるさく響く。


(リリアは……王都は……みんな……どうなるんだ……)


デモリオンを倒したあたりからの記憶は抜け落ちている。

気がつけば布団の上で目を覚まし、ここにいる。

現実に帰ってきたはずなのに、胸を支配するのは安堵ではなく空虚だった。


(……俺、この世界じゃ……なんの役にも立たない)


父に会わせる顔はなく、母には心配だけかけ続けている。

だからこそ、あの世界が――自分にとって唯一の居場所だった。


ふと視線をモニターに戻す。

――そこで異変に気づいた。


灰色のログイン画面の奥に、かすかな残像がにじみ出ていた。

セラフィーと仲間たちが、切り立った岩壁に囲まれた谷に立っている。

霧氷が風に鳴り、白い冷気が足元を這い回る。

その向こう、黒い霧をまとって現れたのは――魔族の王子レオと、二人の将。


(……やばい……あいつら……!

レオは……倒せない……!このままだと全滅するぞ!)


心臓が爆ぜるように跳ね上がる。

指先が冷え、画面越しのはずなのに、谷に吹きすさぶ氷の風が頬を打つ錯覚すら覚えた。

仲間たちは武器を握りしめ、凍てついた地面に足を踏みしめている。

だが――その肩がわずかに震えているのが見えた。


もしログインすれば、再びあの世界に立つことになる。

もう戻れないかもしれない。死ぬかもしれない。

だが、散らかった今の現実世界に、自分を待つ人間はいない。


瞼の裏に浮かぶのは、剣を構えるセラフィーの横顔、背を預け合った仲間たちの姿。

あの世界では、自分は“勇者”であり、必要とされていた。


頬を涙が伝った。

胸の奥から、絞り出すように声が漏れる。

(……俺は……この現実じゃ、生きてるだけのゴミだ。

(でも……向こうには……俺を必要としてくれる人がいるんだ……!)


颯太はベッドの上で膝を抱え、汗に濡れたTシャツを肌に張り付けたまま、荒い呼吸を繰り返していた。

心臓はまだ勇者リリアの戦場にいるかのように乱れ、震える手がシーツを掴んで離さない。


その時、階下から母の声が響いた。

「颯太ー? ごはんできてるわよー!」


日常の、当たり前の呼びかけ。

だがその響きは、今の彼にはあまりにも遠い。

返事をしようとした瞬間、喉が詰まった。

声が出ない。


ベッドの端に額を押し付け、震える唇で彼は呟く。

(……母さん……)


幼いころ、熱を出して寝込んだ夜。

試験に失敗して帰った夕暮れ。

友達に笑われて泣きじゃくった帰り道。

そのたびに台所から聞こえたのは、同じ声だった。

「大丈夫だよ」「ご飯あるからね」と笑ってくれた母の声。

その声が、何度自分を救ってくれたか。


――それなのに。


今、自分はベッドの上で背を丸め、答えることすらできない。

母の声に応えれば、食卓に座れば、きっと温かいご飯が待っている。

母は何も責めず、いつものように笑って迎えてくれるだろう。

それをわかっていながら、彼は顔を上げられなかった。


(……母さん……ごめん……)


頬を視界が揺らぐほどの熱で濡らし、シーツに暗い染みをつくった。

嗚咽が喉を塞ぎ、胸の奥をえぐるような痛みが込み上げる。


母親の声がもう一度響いた。

「颯太? 聞こえてるの?」


その声は優しいのに、今は鋭い刃のように胸を突き刺す。

これが――永遠の別れになるかもしれない。

そう思った瞬間、涙が溢れて止まらなかった。


廊下の向こうから、足音が近づいてくる。

ぎし、と階段が鳴る。

母はただ呼びに来ているだけ――それなのに、その一歩ごとに、別れの音が迫ってくるように思えた。


(俺、この世界じゃ……なんの役にも立たない。

でも……向こうの世界には……俺を必要としてくれる人がいるんだ……!)


声にならない叫びをシーツに押し付け、拳で震える胸を何度も叩いた。

母の笑顔が脳裏に浮かぶ。だが、それを振り払うように、涙で滲む視線をモニターへ向ける。


灰色の画面の奥――仲間たちが必死に剣を振るっている。

その姿に引き寄せられるように、颯太の手がゆっくりと前へ伸びた。


嗚咽混じりの息を吐きながら、颯太はその指先を“ログイン”の赤に重ねた。

胸はまだ震えていた。だが、それ以上に――もう戻らない覚悟が熱を持っていた。


「……母さん……ありがとう。――さよなら」


その囁きは誰にも届かず、ただ部屋の空気に溶けていく。

そして――逃げ道を断つように、颯太はゆっくりとマウスのクリックを押し沈めた。


瞬間、赤は液晶の光ではなく、生き物のように脈打ち、画面が裂ける。

黒と白の渦が部屋を呑み込み、畳も壁も境界を失って崩れ落ちていく。


母の足音が近づいていた。けれど、その音はもう遠い。

代わりに耳を打つのは――仲間たちの悲鳴。


颯太は、現実という名の温もりを棄てた。

残ったのはただ、“必要としてくれる声”に導かれて堕ちていく感覚。


――その瞬間、彼は“引きこもりの青年”ではなく、再び“勇者”として世界に還った。

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