『第二十四話・6 : 黄金の魔法陣は、絶望を照らすか』
だが、その安堵は長くは続かなかった。
セラフィーの指先が、霧氷の谷にひっそり咲いた薬草へと伸びた、その瞬間、
大気が待ち構えていたかのようにひずんだ。
霧がざわめき、凍てつく空気が一斉に逆流し、胸を押し潰すように押し寄せてくる。
巨大な魔力の奔流が、まるで大河の氾濫のように押し寄せ、頭上から大地ごと押し潰そうとしていた。
「な、なんやこの気配……!? ワイの頁、凍りついて粉々やぁぁ!!」
「インクまで……凍結してまうぅぅ!!」
ブッくんの絶叫が、凍りつく空気にかき消される。
セラフィーは本能のままに剣を抜いた。
「……っ、嘘でしょう……!」
手の中の剣が冷気に滑り、慌てて握り直す。
胸の奥に、氷刃を突き立てられたかのような圧が走る。
皮膚の下を這う血流までもが凍りつき、心臓が掴まれている錯覚。
大地そのものが敵意をもって呼吸しているようで、全身が軋み、剣を握る腕が震えを抑えられない。
これは冷気ではない──“存在そのものが放つ魔力”。
幾度も修羅場をくぐった彼女ですら、膝が折れそうになるほどの圧倒感。
剣を握る腕の震えは、すでに心臓の鼓動と区別がつかなくなっていた。
空間が軋み、黒と蒼の魔法陣が凍りの大地に浮かび上がった。
紋様が回転し、低い唸りが谷を震わせる。
そして、中心が白光を帯び、閃光が一瞬あたりを塗り潰し──光が収まったとき、そこに立っていたのは三つの影だった。
中央の青年は、ただ立つだけで瘴気と冷気を渦巻かせ、谷全体を軋ませるほどの魔力を放っている。
その男こそ、魔王カルマ=ヴァナスの血を継ぐ者、レオ=ヴァナス。
(……だめ。桁が違う……! このままじゃ、本当に全滅する……!)
セラフィーの胸を突き刺すのは勇者としての直感──抗えぬ圧倒的な力への恐怖だった。
一人でも絶望的なのに──その両脇には、魔王軍の将まで立っている。
三つの影が放つ威圧は、すでに戦場を埋め尽くし、呼吸すら許さぬほどだった。
そして、彼の両脇には二人の将が控えていた。
魔王軍第三将・氷槍騎士ガルド=アイゼン──黒鎧の巨躯が槍を突き立て、氷壁のごとき圧で大地を揺らしている。
その隣に立つのは、第六将・冷術士リセル=フロスト──蒼仮面の術士は沈黙のまま指先に氷光を灯し、霧を凍り付かせていた。
今、谷の空気は、彼ら三人だけで支配されていた。
谷を圧する沈黙ののち、レオは冷たく言い放った。
「我が名は──レオ=ヴァナス。
魔王カルマ=ヴァナスの正統なる継承者にして……リリア・ノクターンの婚約者だ!」
その名乗りに、兵士たちは一斉に息を呑み、谷はざわめきと恐怖に包まれた。
だが、レオの瞳は群れの誰も見てはいない。
ただ一人、仮面の兵士を射抜き、逃さぬ獲物のように視線を絡め取る。
「迎えに来たぞ。我がフィアンセ、リリアよ──」
兵士たちは戦慄し、セラフィーの喉も凍りつく。
その静寂を裂くように、レオはさらに告げた。
「天が裂けようとも、大地が砕けようとも──リリアは余の永遠だ」
狂気と愛執が混じり合うその誓いは、氷の谷を震わせるのではなく、魂そのものを揺さぶった。
薬草を見つけた安堵は、音もなく砕け散り、残されたのは“圧”だけ。
そして、その矛先を向けられた仮面の兵士は、耐えきれぬように身を震わせる。
──ぴしり。
仮面に蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
──ぱきり。
仮面が砕け落ち、氷の破片のように散ったそれは霧に呑まれ、白い粉雪と見紛うほど静かに消えていった。
同時に、空気そのものが重く沈み、胸を圧迫する冷気が走る。
露わになった顔は、リリアの面影をなぞっていた。
だがそこには笑みも温もりもない。かつては淡く光を宿していたピンクの髪が、今は深い漆黒へと塗り替えられていた。
無機質な瞳は感情を映さず、ただ立つだけで冷ややかな支配を漂わせる。
“似ているが、決して同じではない”──その違和感が、見る者の胸を切り裂く冷刃となった。
「な、なんやこれ! まるで“勇者そっくり商法”やんけ! 返金どころか慰謝料もんやでぇ!!」
ブッくんが悲鳴じみた叫びをあげる。
だが、兵士たちはざわめきながら口々に漏らしていた。
「……リリア様……?」
「いや、姿は……けれど……」
ざわめきが恐怖へ変わり、呼吸の乱れが集団を支配していく。
ワン太が“ぽふっ”と跳ね、毛を逆立てて前足を突き出す。
小さな身体に宿る仕草は断言していた──「見てわからんのか! これはリリアちゃう!」と。
ブッくんも負けじと頁をばさばさ震わせ、レオに向かって絶叫する。
「おいレオ! こいつはリリアちゃうぞ! ページの隅っこ見りゃわかるくらい別人や!
お前みたいな魔力モリモリのやつが、そんなこともわからんのかい!!」
ブッくんの絶叫を受けて、レオは一拍置いて声をあげた。
「フハ……ハハハ……!」
谷に響く笑いは冷気よりも残酷だった。
「よくぞ吠えたな。だが──それでもあれは余の花嫁だ」
──その時。
凍りついた大地を裂き、黄金の魔法陣が静かに顕れた。
幾重にも重なる紋様は太陽の冠のように回転し、氷と霧を押し退けていく。
谷を覆っていた闇は後退し、夜そのものが光に染め替えられていく。
冷気すら退き、兵士たちの影が黄金に照らされ浮かび上がる。
その揺らめく影は、救いを待つ群衆にも、裁きを受ける罪人にも見えた。
誰もが息を呑み、声を失った。
その光は祝福のようでありながら、同時に逃れられぬ審判のごとく胸を縫いつける。
やがて、魔法陣の中心でまばゆい輝きが人のかたちを結び始めた。
しかし光はなお強すぎて、誰の目にも輪郭しか映らない。
──何が現れようとしているのか。
救世か、終焉か。
答えは示されぬまま、黄金の光だけが谷を支配していた。