『第二十四話・5 : 戦場バラエティと白き霧』
湖畔に残されたのは、戦いの余韻と疲弊だけだった。
傷だらけの兵士たちは甲冑を支えきれず、列を組むどころか震える足を前に出すことすら難しい。
ブッくんは頁の端を破られ、よれよれになりながら呻いた。
「ワ、ワイもう……ただの紙くずやでぇ……」
「情けない。――この程度で怯むなら、すぐにでも帰りなさい。行くわよ!」
セラフィーの声が、凍てつく風より鋭く響いた。
だが、その後の道のりはさらに混沌を極めた。
血と鉄の臭気を孕んだ湿った風が吹き、ぬかるんだ湖畔は黒泥を湛えていた。
一人の兵士が足を取られ、甲冑ごと泥に沈み込み、必死に手を伸ばす。
「助けてくれぇぇ! 鎧が重すぎて沈没寸前や!」
「お前は船か! いや、“沈む前に自力で立てや!”」
ブッくんがツッコミを飛ばしながら、頁で泥をばっさばっさ掻き散らす。
さらに別の兵は慌てて剣を抜こうとして鞘ごと泥に落とし、拾おうとして自分も転倒。
兜を外した兵が湖にぷかぷか浮かび、「俺の頭が流れるぅ!」と叫びながら必死に泳ぐ。
それにぶつかった仲間が「ぎゃっ」と悲鳴を上げ、二人まとめて再沈没。
「お前ら護衛やろ!? 何してんねん! “戦場のバラエティ番組”か!」
ブッくんの絶叫が湖畔に響き、セラフィーは苛立ちを隠しきれず、額を強く押さえた。
その混乱を見かねて、ワン太が“ぽふん”と前へ跳ねる。
滑って泥に顔面から突っ込んだ兵士の頭に乗り、ちょこんと尻尾を振った。
その仕草は「落ち着け」と言わんばかりで、混乱の中に一瞬の笑いが広がった。
──だが、笑いは長く続かなかった。
やがて黒泥は凍りつき、靴底が軋む音が響く。
「うぅ、靴が氷に貼りついて動かん!」
「ぎゃっ、鎧の隙間に氷が……冷たっ!」
「ひぃぃ、鼻毛まで凍るぅぅ!」と叫んだ兵まで現れ、隊列はドタバタの見本市と化した。
それでも進むにつれ、森はやがて白に閉ざされていく。
砕けた氷片がぱらぱらと落ちるたび、笑い声も悲鳴も凍りついた。
白一色の道。
湿気を孕んだ鉄臭さも、血の匂いも、すべて雪と霧に呑まれていく。
残ったのは、冷たい息遣いと、張りつめた沈黙だけ。
こうして彼らはようやく──霧氷の谷の入口へと辿り着いたのだった。
谷の入口を越えた途端、空気が変わった。
白霧が渦を巻き、吐く息すらすぐに視界を遮る。
氷柱が牙のように突き出し、わずかな音も反響して返ってきた。
「ひぃぃ……! 声が勝手に三重唱なっとるぅぅ!」
ブッくんがびくついて叫ぶと、甲冑の兵も思わず背を丸める。
しかし災難は続く。
「わっ、槍の穂先が氷に刺さって抜けん!」
「うぎゃっ、マントが氷柱にひっかかって首が絞まるぅ!」
「お、おれの尻が氷に貼りついて……離れん! たすけっ!」
次々と情けない悲鳴があがり、列はさらにぐしゃぐしゃに乱れた。
転んだ兵が氷柱に頭から突っ込みかけた瞬間、ワン太が“ぽふん”と飛び出し、ふわふわの体で衝撃を吸収する。
「ぬいぐるみに命を救われるとは……」兵士が蒼白になって呟く。
「ワン太の方が護衛しとるやんけ!」
ブッくんが即座にツッコミを飛ばし、セラフィーは苛立ちを紛らわすように深く息を吐いた。
だが笑いはすぐ凍りつく。
霧の奥から「……きし……ぎし……」と、氷が軋むような耳障りな音が響いてきたのだ。
誰もが息を呑み、足を止める。
セラフィーは剣を握り直し、低く呟いた。
「……気を抜くな。ここからが、本当の霧氷の谷よ」
足元の雪は深さを増し、靴が沈むたびに冷たい水が甲冑の隙間へと忍び込む。
兵士たちの震えは寒さだけではなかった。
──そして。
その氷壁の裂け目に、淡い蒼光が瞬いた。
不自然なほど澄んだ光。まるで人の手で置かれた目印のように。
「……っ!」
セラフィーは瞳を奪われるように駆け寄る。
氷壁の裂け目に、ひっそりと、淡い蒼光を宿した草花が揺れていた。
霧氷の谷にしか存在しないと伝わる幻の薬草──蒼梢の雫草。
「……あった……! 本当に……」
吐息が震える。
奇跡の草を前にして、兵士たちの胸にようやく希望の火が灯った。
“救いはまだある”──その実感が、氷の谷に初めて温もりを運んでいた。