『第二十四話・3 : 瘴気の湖──残された記憶は風に揺れて』
王の言葉に従い、鎧をまとった十人の兵士が広間に進み出た。
一糸乱れぬ足音が石床を震わせ、松明の炎がその甲冑に反射して揺らめいた。
「余が誇る近衛の一隊──《氷刃の十人》である」
王は鼻を鳴らしながら紹介する。
「名の通り、霧氷の谷に通じる精鋭ぞ。命を賭して、お主らを守るだろう」
だが、進み出た兵士たちの顔ぶれを見て、セラフィーとブッくんは同時に眉をひそめた。
一人は筋骨隆々なのに腰の剣より羊皮紙の地図を手放さず、ぶつぶつ道順を唱えている。
一人は仮面を外さず、こちらをじっと凝視するだけで一言も喋らない。
さらに、一番後ろの青年兵は目が合うたびに「女神様ファンです!」と意味不明に敬礼していた。
加えて、もう一人は甲冑を鳴らすたびにリズムを取り、「出陣の歌や!」と妙に音程を外しながら歌い出す始末。
「……なあ、セラフィーはん」
「ええ……ちょっとクセが強いわね」
ブッくんは頁をばさばさ震わせ、思わず叫んだ。
「十人どころか十種類のトラブルやんけ!!」
王はすっかり上機嫌になり、ひげを撫でながら頷いた。
「ふはは! 良きかな良きかな。そなたらには丁度よい護衛であろう」
セラフィーは内心で大きくため息をつく。
(……これは守られるというより、振り回される未来しか見えない)
ワン太はそんな空気をよそに“ぽふっ”と跳ね、十人を一瞥すると満足そうに尻尾を振った。
どうやら、彼だけはもう仲間として受け入れたらしかった。
王城を出発してまだ一刻も経たぬうちに、行軍の列は早くも乱れていた。
「右だ! いや左だ!」
先頭の地図マニア兵が羊皮紙をひっくり返しながら進むたび、隊列は右往左往。
「……おい、道案内のはずやろ。迷子やないか」
ブッくんは頁をばさばさ震わせ、怒鳴るように突っ込んだ。
仮面の兵士はというと、歩きながらずっとセラフィーを凝視している。
あまりの視線の強さに、セラフィーは思わず剣の柄に手をかけた。
「……何か言いたいことがあるのかしら?」
返ってきたのは沈黙だけ。
さらに、後方からはやたら大きな声。
「女神様ファンです!」
青年兵が目が合うたびに直立不動で敬礼し、そのたびに行軍が止まってしまう。
「お前ら護衛ちゃうやろ! 足手まといや!!」
ブッくんは絶叫したが、兵士たちは一切動じる気配を見せなかった。
セラフィーはこめかみに手を当て、大きくため息をつく。
(……これ、本当に霧氷の谷まで辿り着けるのかしら……)
ワン太だけは“ぽふっ”と跳ねながら楽しそうに先頭を歩き、尻尾をふりふり。
(ワン太は……たぶん全員仲間だと思ってるのよね……)
混乱しながらも進軍を続け、やがて一行は巨大な湖のほとりへと辿り着いた。
水面は濁り、あちこちに黒く焦げた岩が突き刺さっている。
その中央には──崩れ落ちた巨躯。
昨晩リリアに討たれた、魔獣デモリオンの残骸だった。
一部が湖に沈みきれず、腐臭と瘴気を撒き散らしながらそのまま横たわっている。
「うっ……!」
先頭の兵士が喉を押さえ、地面に膝をついた。
耐えきれず吐き戻し、甲冑の隙間を汚す音が辺りに響く。
「お、おい大丈夫か!?」
「やめろ、瘴気を吸いすぎるな!」
列の中で慌てる声が飛ぶ。
セラフィーは吐き気を抑える兵士たちを横目に、湖のほとりへと歩み寄った。
瘴気の向こうに、奇妙な石柱が突き立っているのが見える。
禍々しい文様が刻まれ、そこから黒い鎖のような魔力がデモリオンの残骸へ伸びている。
「……やはり。これが結界の中枢ね」
深く息を吸い込み、両手を掲げる。
「──聖なる理よ、封じられし鎖をほどけ」
詠唱とともに魔法陣が浮かび上がり、石柱を絡め取っていた黒鎖が音を立てて砕け散った。
「……これが、魔王の七つの結界のひとつ。
二つ目を解いたということは……残り五つ」
セラフィーの声は硬く響いた。
ブッくんは頁を震わせ、湖の中心に横たわる巨躯をにらみつけた。
「……リリアはん、こんなん一人で斃したんか……。正直、常人の領域ちゃうで……。
甘味で命の残機を増やしとらんかったら、絶対ここで終わっとったやろ」
兵士たちが青ざめて足を止める中、ただ一人、列の中で黙り込んでいる影があった。
無駄口ひとつ叩かず、瘴気を吸い込むこともなく、湖と残骸をじっと観察している。
甲冑の隙間から覗く眼差しは冷たく鋭く、ただ弱気に震える他の兵士とは明らかに違っていた。
(……妙ね。あの兵だけは……他と格が違う。使えるかもしれないけれど──何を考えているのか、読めない)
セラフィーはその視線を一瞬だけ受け取り、不穏なざわめきを胸に沈めた。
その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。
どれほど苛烈で、常軌を逸していても──リリアには決して抱かなかった不信。
ただ隣に立つだけで、背中を預けられると確信できた人だったのに。
(……それなのに、私は一度、その信頼を疑った)
あの刹那の迷い、振り返った彼女の瞳。
「大丈夫」と微笑んでいた声が、耳の奥に蘇る。
その笑みを思い出すほどに、胸に突き刺さる棘は深くなり、呼吸すら乱れていく。
懺悔の言葉は喉まで込み上げるのに、声にはならない。
冷えた風が湖面を渡り、瘴気の匂いが肺を灼いた。
けれどそれ以上に、胸の内に広がった空白の方が息苦しい。
あの温もりがもう隣にない──その事実こそが、何よりも堪え難かった。
今ここにいない勇者。
リリアの不在は、ひそやかな痛みとなって胸の奥に沈み──
残された記憶だけが、なお確かに息づいていた。
まるで、湖面を渡る風が、失われた温もりを静かに撫でるように。