『第二十三話・4 : 祈りの光、霧氷の谷への誓い』
(あっ……やばい)
リリアの意識が刹那に遠のき、瞳の光がふっと消えた。
胸に積もった失望の重みと共に、身体は抗うことなく膝から崩れ落ちる。
握っていた剣は乾いた音を立てて石畳に転がり、澄んだ金属音が夜を裂いて反響し、やがて虚空に溶けていった。
剣を振るう力も、希望を抱きとめる気力も尽き果て、残されたのは深い悲しみと、自らへの絶望だけ。
六翼の残光は空へと散り、焦げた大地を虚ろな輝きで覆い尽くしていた。
「リリア!」
セラフィーは駆け寄り、その身体を抱きとめた。
胸はかすかに上下している。呼吸はある。
だが、その瞼は重く閉ざされたまま、目を覚ます気配はどこにもなかった。
(……息はある……まだ生きてる……!)
胸を撫で下ろしたのも束の間、冷たい衝動が心に忍び込む。
(……今なら……)
――ここで彼女の命を絶てば、この世界は救われるのではないか。
災厄の芽は、ここで摘まねばならないのではないか。
セラフィーの指先がかすかに震える。
さっきまで必死に案じていた想いと、世界を守るべき責務とが、胸の奥でせめぎ合っていた。
(……ごめん、リリア。私だって、こんなこと望んでない……
でも、もしあの力が再び暴れ出したら……
あなたを信じるよりも、世界を守ることを選ぶしか……!)
その刹那
――光。
リリアの身体を、淡い輝きが包み込んだ。
それは形を成し、幼い少女の幻影となって浮かび上がる。
まだ何も知らぬような無垢な笑み。
小さな両腕が、崩れ落ちたリリアをやさしく抱きしめる。
温もりが、セラフィーの胸にまで流れ込んでいく。
突き刺さっていた冷たい衝動は、まるで雪解けのように音もなく溶かされていった。
心臓がきしむ。
理解なんて追いつかない。ただ、涙が勝手に溢れて止まらなかった。
胸に広がる温もりは名を持たず、言葉にならず、それでも確かに“守る”と告げていた。
理屈ではなく、魂そのものが震え、祈りに抱かれているのだと悟らされた。
名を与えるなら封印かもしれない。奇跡かもしれない。
だが今のセラフィーには、そんな呼び方すらどうでもよかった。
ただ一つ、リリアを包む光が彼女を奪わせまいと必死に抗っている──その事実だけが胸を震わせた。
淡い幻影は、ただの幻ではなかった。
封じられた奥底から滲み出た、正体の掴めない力。
勇者としての剣ではなく、ただ人としての祈りが形を取り、彼女自身を抱きとめていた。
セラフィーは目を閉じ、深く息を吸った。
頬を伝う涙は止まらず、拭おうとしても次々に零れ落ちていく。
胸の奥に残っていた恐怖も迷いも、その雫と一緒にこぼれ落ちていくようだった。
「……そうね……」
震える声で呟き、唇を噛む。
「……信じるしかないのよね……私たちのリリアを……」
頬を濡らしながら、ブッくんが頁をばたばた震わせて絶叫する。
「せやぁぁ! リリアはんは……ワイらの仲間やろがッ!
ここで見捨てるなんて、ありえへんやろ!
絶対、捨てたらアカンのや!! ワイらは最後まで一緒や!!」
その声に、セラフィーは涙を拭うことなく頷いた。
そして、両手を掲げると、大地に奔る光が幾重もの紋を描き出す。
「──転移術式〈ゲート〉、起動!」
魔法陣は轟くように輝きを増し、眩い閃光が三人を包み込む。
荒れ果てた戦場は音も匂いも遠ざかり、血と炎の臭気も、黒い湖の泡立ちも――すべてが光の彼方へと置き去りにされた。
目も眩む浮遊感ののち、三人は石畳の回廊に吐き出された。
そこは王都の中央区――既に待機していた治癒師たちが駆け寄り、リリアを担架に移す。
セラフィーは息を荒げながらその背を追い、ブッくんは涙まみれの頁をばたつかせていた。
「急げ! 医療塔へ!」
治癒師の叫びとともに扉が開かれ、冷たい薬草の香りが押し寄せてくる。
──そして。
眩しさが引いたとき、そこは静謐な王都の医療塔だった。
白亜の石壁に囲まれた広間。天井からは澄んだ光が射し込み、外の喧騒から切り離されたように静まり返っている。
外ではまだ戦のざわめきが続いていたが、この塔だけは異様な静謐に包まれていた。
白い寝台の上に、リリアは横たわっていた。
閉ざされた瞳は動かず、呼吸はかすかに揺れるだけ。
その姿は、眠り姫のように穏やかだった。
だが同時に、その静けさは安らぎではなく、まるで“永遠の眠り”へと沈んでいく前触れのように思えた。
「……リリア……」
セラフィーはシーツを握りしめ、祈るようにその顔を覗き込んだ。
隣でブッくんも、涙で湿った頁を震わせている。
医師は重く首を振った。
「……あの戦いで、彼女は文字通り“命を削った”のでしょう。
魂の芯にまで刃を刻み込んだ……普通の人間なら、とっくに死んでいるはずです。
あそこまで無理をして生き延びたこと自体が、奇跡としか言えません」
セラフィーは唇を噛み、震える声を洩らす。
「……そんな……リリア……どうして……」
ブッくんも頁を濡らしながら嗚咽を漏らす。
「無茶しすぎや……この人はいつもそうや……ッ」
白い寝台の上、リリアは微動だにせず眠り続けている。
ただ、かすかな呼吸だけが“まだ生きている”証だった。
やがてリーダー格の医師が歩み寄り、重苦しい沈黙を割るように声を落とした。
「……肉体の損傷は回復符で繋ぎとめています。だが精神は“魂位崩壊”の兆候を示しています。
魂の灯火が深い闇に沈み込み、このままでは……目覚めぬまま消えてしまうかもしれない」
セラフィーは息を呑み、堪えきれず医師の袖を掴んだ。
「……どうにかならないんですか!? 先生……! リリアを助ける方法は……!」
医師は深く眉を寄せ、低く答える。
「応急の手は尽くしました。回復符も祈祷も、これ以上は“外側”を繕うだけ……魂そのものを救う術は、常の医療にはありません」
「……ただ一つだけ手はあります。伝承にある“蒼梢の雫草”。
魂に宿る魔力の濁りを清め、深層から意識を呼び戻すとされる幻の薬草です。
王都には存在しません。北方の魔境……“霧氷の谷”でしか採れぬと言われています」
静寂が落ちる。
セラフィーは拳を握り、ブッくんは頁を震わせながら声を上げた。
「……探しに行くしか、あらへんやろ……! リリアはんを、見捨てるわけにいかへん!」
「霧氷の谷やろうが地獄やろうが、ワイらが行かんで誰が行くんやッ!!」
セラフィーは涙を拭わずに頷いた。
その瞳に宿った光は揺るがず、深い夜を切り裂く決意だけが残っていた。
王都の鐘が遠くで鳴り、冷たい風が頬を撫でる。
リリアを救うための旅は、もう始まっていた──。