『第二話・5:千魂葬陣、アレマサ』
その瞬間、リリアの身体──つまり颯太の中の何かが、深い海の底で、音もなく反転した。
(……やるしかねぇ。……行くぞ)
空気が、びり、と震える。
骨の奥で、微細な振動が響き、鼓動と同期する。
リリアの身体が、静かに立ち上がる。
その双眸に、いまはもう、ひと欠片の光もない。
意識は底の底へと沈みゆき──その奥底で、“かつての自分”が、静かに眼をひらいた。
《……認識コード LILIA=再導入》
《アクセス:旧世界コード999》
《リンク:本体ユニット“犬飼颯太”──継続中》
指先から、黒い光が走る。
熱でも冷気でもない、“データが焦げる匂い”を伴った閃光。
リリアは静かに右手を掲げる。
「──これは、“書き換え詠唱”。この世界の記録ごと、燃やす術──」
ほんの一瞬、森のざわめきが止まった。
風が息を潜め、葉の一枚すら動かない。
「──《千魂葬陣・アレマサ》、起動詠唱──」
その言葉と同時に、世界が軋む。
木々の影が逆流し、地面に刻まれた獣の足跡が一瞬で消えていく。
「天の階より名を奪いし者よ……」
──声は、ひどく澄んでいた。
「七十二の羽根を捨てし堕天よ……」
──響きは、どこか懐かしくもあった。
「その罪を刻み、この身、この声、この魂にて──」
……一拍。息が止まる。
「再び“黄泉の扉”を叩かん」
リリアは一歩、静かに前へ進む。
風もないのに銀髪が揺れ、瞳は虚ろに空を見上げていた。
その背中から伝わる気配は、颯太のものではなかった。
足元に滲む、漆黒の靄。
魔法陣ではない。
“魔法陣があった場所”そのものが、エラーごと塗りつぶされて歪んでいく。
森の木々がざわめく。融合体の呻き声が、次の瞬間には詠唱の一節に変換され、
まるで異形が“無理やり歌わされている”かのようだった。
敵さえ術式の部品に組み込まれ、存在を分解されていく。
(……これが……俺の……力? いや、違ぇな。これはリリアの……)
(けど……今は、もう区別なんか──)
「我が記録番号、旧約《No.999》」
「記録の外より顕現せし残響」
「されどこの手は、未だ断ち祓う刃を忘れず──」
その手がゆっくりと宙に浮かぶ。
指先で“虚空の羽根”をなぞる仕草は、神聖で、禍々しい。
天と地の座標が、音もなく崩れる。
空に走る、黄金と黒のグリッチ。
モンスターたちは、ログアウト中のアバターのように沈黙していた。
リリアは細く息を吐き──胸元に手を添えた。
その肩が、ほんのわずかに震えている。
(この身体が耐えられるか……)
迷いは一瞬。すぐに押し込め、唇を結ぶ。
《……内部ログ出力:LILIA(ver.9.99β)》
《詠唱進行度:88%》
《座標リンク完了──断層より影響波》
《コード干渉:ERROR── 神託から逸脱》
《ERROR:操作者不明のコード挿入》
《WARNING:二重プロセス稼働……“観測者以外”の詠唱反応》
それでも、リリアは続けた。
「《冥絶ノ書》第七頁──開帳」
「術式、再構成」
「属性:負。原初コード:ゼロ」
「命令……この森の“しずめの詩”を書き換えろ」
指先がぴたりと空を刺す。
その瞬間、空間が水のように揺れ──リリアの影が、地面に複数の像を落とす。
空が、落ちる。
木々が逆巻き、音が泡立つ。
「神よ、記せ。悪魔よ、祓え」
「この呪詛の詩に名を刻みし時──」
(……俺は、もう戻れねぇ)
俺は勇者リリアか? 犬飼颯太か?
それとも、この世界が生んだ“ただのエラー”か?
三つの自分が交錯し、どれでもあって、どれでもない。
だが──選ぶなら一つしかない。“今ここで戦う俺”だ。
胸の奥で、わずかな悔しさと恐怖が渦巻いた。
だがそれ以上に──「進みたい」という欲望が勝っていた。
(戻れなくてもいい。勇者リリアでも、ただの颯太でもない。“俺自身”として、ここで掴むんだ──!)
「我が力と記憶は──永劫の螺旋に帰順せん」
《……内部ログ:LILIA》
《詠唱進行度:99%》
《最終認証──通過》
空は二重に裂け、黒と金の渦が重なり合う。
森の根は逆さに伸び、影は空へと滲み出す。
存在の上下左右が反転し、世界が“並列に二つ”走り始めた。
リリアは、天に向かって手を伸ばす。
その仕草は祈りにも似ていた。
けれど──その瞳は何も映していなかった。
「……この術式が使えるのは、あと一度だけ──」
「……それまでに、“この世界”を終わらせる」
声は凛として、美しかった。
けれど同時に、どこか“人間の声”から外れていた。
「《千魂葬陣・アレマサ》──起動ッ!!」
──ゴグンッ!!
音ではない。“世界の軋み”が、耳の奥を揺さぶった。
空気が裂け、現実そのものがざわめき始める。
敵も森も、同時に裏返って反転し、融合体の絶叫が詠唱と重なって消えていった。
……そこに立っていたのは。
……勇者でも颯太でもない。ただ、呼ばれもしない何かが立っていた。