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『第二十一話・5 : 甘き勇者、涙と笑いとチョコまみれ』

ザッハトルテの甘香がなおも廊下を満たす中、リリアは床に座り込み、口のまわりをチョコでぐちゃぐちゃにしたまま肩で息をしていた。

その瞳からは、甘さに震える涙がまだ止まらない。


「……ッ、はぁ……う……まさに……神の菓子だったわ……」

中性的に響くその声には、なお甘味の余韻が宿っていた。


セラフィーは剣を握ったまま呆然と立ち尽くし、静かに呟く。

「……ほんとに、食べきってしまったのね……聖なる封印を……」

怒りよりも安堵、そして戸惑いが混ざった声音だった。


ブッくんは涙と鼻水で頁をぐしゃぐしゃに濡らしながら絶叫する。

「なんやねんお前ェェ!! 勇者やなくて大食漢やぁぁ!!

 ……でも……でもなぁ……ワイのページ繊維が、“うまい”って震えとるんや……!!」


兵士たちも呻きながら声を重ねる。

「甘い……甘いのに……救われた……!」

「舌が痺れるほどの甘みが……恐怖を追い出した……!」


広間の奥、王は玉座からゆっくりと立ち上がる。

その眼差しは鋭いはずなのに、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。


「……封印は……守られたのだな」

低く、重い声が響く。


リリアはチョコで汚れた顔のまま胸を叩き、堂々と答えた。

「ふふっ……なんせ、わたしは無敵だから……!

 犬も、菓子も、この胃袋でみんな守ってあげる……!」


(おい、その言い回し勇者の宣言じゃなくてただの大食い選手権やぞ!?)


その瞬間、広間を埋めていた甘気がすっと消えた。

砂糖細工の犬が散った光は、天井の高窓から差し込む月明かりに溶けていく。


セラフィーは剣を鞘に納め、わずかに笑った。

「……ほんとにバカみたい。でも……正解だったのね」

その横顔には、一筋の涙がきらめいていた。


やがて封印が静まり返り──

王都には虹色の飴片が風に乗って舞い、子どもたちは空を見上げて手を伸ばした。


「女神に続いて……今度は勇者か……」

「勇者がケーキ食って世界救ったって……なんだそれ……」

「でも事実だ……俺たちは甘さに殺されかけて、甘さで救われた……!」


市場では菓子屋の親父がザッハトルテのレプリカを焼き、

「これぞ勇者リリア特製・聖ザッハ!」と看板を掲げると、大行列ができた。

子どもたちは目を輝かせ、職人たちは涙を流し、甘味は祝祭の中心となった。


王は歓声の余韻を断ち切るように言った。

その声は広間の天井を揺らし、喝采を一瞬で沈黙に変えるほどの重みを帯びていた。


「……だが、安堵に浸るのはまだ早い。

 魔王カルマ=ヴァナスの本拠“神の忘却領”へ至るには、七つの結界を破らねばならぬ。

 この王都の北方、“紅晶の砦”に、二つ目の結界がある」


ざわ……。

その名が告げられた途端、兵士たちの背筋に冷たい波が走った。

誰かが息を呑み、誰かが祈るように胸を押さえる。


「紅晶の砦……そこに挑んだ騎士団は、誰ひとり戻らなかった……」

老兵が呻くように呟き、広間の空気が凍りつく。

別の僧兵は額に印を結び、若い兵士は剣を抜きかけて震える手を必死に押さえ込んだ。


王はさらに言葉を重ねる。

「紅晶の砦は、古王朝の墓地に築かれた。

 赤き結晶は“血の結晶”とも呼ばれ、触れた者の心臓を砕くと伝えられている。

 千年前、その結晶に挑んだ将軍が、紅の像と化して立ち尽くしたまま発見された──

 その恐怖を、我らは再び迎えようとしている」


震える呟きが鎖のように広間を伝染し、空気をさらに重く沈ませていく。


セラフィーは王の言葉を受け止め、迷わず一歩前へ出た。

瞳には恐れがあったが、それ以上に静かな決意が燃えていた。

「次は……私たちが進む番ですね」


「ひえぇ……また命懸けやん!? ワイ、もうページ閉じんぞぉぉ……!」

ブッくんは床を転げ回り、墨のしみのような涙跡を広げながら泣き叫ぶ。


リリアはワン太を抱き直し、堂々と笑みを浮かべる。

「……ふふ。砦だろうと怪物だろうと、全部食べ尽くしてあげる。

 だって、わたしは──勇者だもの」


(おいやめろ! “勇者”の肩書きに胃袋のブラックホール混ぜんなや!!

 自分で言って自分で墓穴掘ってんじゃねーか!!)


セラフィーが横で小さく笑う。

「……バカね。でも……そのバカさに、私も賭ける」

その声にはわずかに震えがあったが、それ以上に仲間への信頼が宿っていた。


ブッくんは涙目で絶叫する。

「世界救う勇者なんざ腐るほど伝説におるやろ!!

 ──でもなぁ、理屈ぶっ飛ばして“力技で納得させる勇者”なんざ聞いたことないわぁぁ!!」


広間の外では、まだ鐘と太鼓が鳴り響いていた。

だがその響きは祝祭の熱狂ではなく、死地へ送り出すための“鎮魂の調べ”のように聞こえた。

兵士たちは沈黙の敬礼を捧げ、僧侶たちは祈祷を重ね、民は松明を掲げて勇者の行軍を照らした。

その炎の列は、国全体がひとつの意志で勇者を送り出す光景に変わっていた。


リリアはくるりと背を向け、夜気に包まれた扉の先を見据え、大声で宣言する。

「──行くよ! “紅晶の砦”へ!!」


(あかん、もう胃薬常備コースや……! 寿命と精神力ガリガリ削られていく未来しか見えんわぁぁ!!)


セラフィーは苦笑し、ブッくんは泣きながら引きずられ、兵士たちは息を呑んで勇者を見送る。

こうして、“勇者”リリアの一行は、新たなる結界を目指して旅立った。


──広間の高窓からこぼれる月光が、まだ汗と涙を残したリリアを照らしていた。

その笑みはおどけて見えながらも、人々の胸に灯をともす炎のように強く、温かかった。


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