『第二十話・3:まだ落ちぬ王城へ』
炎の唸りは、まだ止んでいなかった。
黒煙が街路を覆い、崩れ落ちた建物の下からは助けを呼ぶ声が途切れ途切れに響いている。
泣き声。悲鳴。瓦礫のきしむ音。光の浄化は魔を消し去ったが、人の苦しみまでは終わらせていない。
熱風が吹き抜けるたび、煤が目と喉を刺し、焼けた鉄と血の匂いが肺を満たす。
リリアは剣を下ろしたまま、深く息を吐いた。
肩にのしかかるのは、祈りと──責任。
「……セラフィー。魔法は?」
問いかける声は低く、だが焦燥を押し殺していた。
セラフィーは片膝をついたまま、首を横に振る。
「無理よ……いまは回復どころか、火を払う魔法すら撃てない。私にできるのは……祈ることくらい」
その顔は悔しさに歪んでいた。
それでも立ち上がろうと膝に力を込め、震えを堪えている。その姿が痛々しくも眩しくて、リリアの胸はきゅっと熱くなった。
ブッくんが必死に頁をばたばたさせる。
「ひぃぃっ……! ワイ、水気ゼロやのに、火の中で役立たずやぁぁ!!」
(いや、自分で言うなよ! 役立たず宣言してどうすんだ! でもちょっと笑って救われたわ……)
そのとき──ワン太が“ぽふっ”と跳び出した。
焦げた街路を駆け、倒れた瓦礫の隙間に鼻先を突っ込む。
前足で瓦礫を掻き、短く息を吐いたように小さな胸が揺れる。
(……そうか。まだ、生きてる人がいる!)
リリアは剣を背に収め、駆け出した。
「みんな、離れて! 私が持ち上げる!」
腕に力を込めると、瓦礫の隙間からかすかな光が滲み出す。
それは残滓の魔法ではなく──人々の祈りに応えるように、剣が残した光の加護だった。
崩れた梁がふっと軽くなり、下敷きになっていた少年が咳き込みながら姿を現す。
「だ……大丈夫?」
リリアは少年を抱き上げ、母親の腕へと渡す。
母親は涙で顔を濡らしながら、深々と頭を垂れた。
「ありがとうございます……女神さま……!」
その言葉に、リリアの胸はひりついた。
(……やめてくれよ。“女神”なんて、俺じゃない……いや、俺はケーキの神を崇める信者やから!)
だが否応なく、周囲の視線は彼女を仰ぎ見ていた。
炎の街の中で──「祈り」と「救い」の象徴になった自分を。
光が収束した広場には、灰と静寂だけが残されていた。
人々はなおリリアを見上げ、祈りの言葉を口にし続けている。
だがリリアは剣を握り直し、遠くにそびえる王城を見据えた。
──炎に包まれながらも、その城はまだ崩れてはいなかった。
白亜の壁は煤に黒く染まり、塔の尖端は煙に覆われている。
だが城門は閉ざされ、必死に抗っているのが分かった。
セラフィーが荒い息を整え、低く言った。
「……王城はまだ持ちこたえているわ。
でも、この炎と軍勢に呑まれるのは時間の問題……」
リリアは強く頷いた。
「間に合う。私たちが行けば、まだ……守れる」
「ひぃぃぃっ!? そんな火の中に飛び込むつもりかいな!?
紙は火と相性最悪やって、何度言わせるんやぁぁぁ!!」
ブッくんは涙目で頁をばたばたさせる。
(いやいや、相性悪いのは紙だけじゃなくて俺もだから! “女神ポジ”とか完全に向いてないのに!!)
その横で、ワン太が“ぽふっ”と前に出た。
炎に照らされる布の瞳は、真っ直ぐに王城を映している。
(……おい無言でカッコつけんなよ……! ただのぬいぐるみのくせに……! でも今の俺より頼りになってるのが腹立つわ!!)
広場にひざまずいていた人々が、一斉に顔を上げる。
「女神さま……!」
「城を……どうか城を……!」
祈りの声が、炎に掻き消されることなく届いてくる。
それは熱風よりも重く、リリアの胸にのしかかっていた。
(……くそっ。俺はケーキが食いたいだけなんだぞ……!
でも、逃げられるかよ。ケーキも、人も、この手で守る!)
(……っていうか、本音を言えば“ザッハトルテ”目当てでここまで来ただけなのに! なんで俺が女神やってんだよ!)
リリアは剣を掲げ、歩み出した。
燃え落ちる街路を越え、まだ落ちぬ王都の心臓──王城へと。