『プロローグ1: 勇者、犬のぬいぐるみになる?』
少なくとも──俺、犬飼颯太にとって、この世界はただのゲームでしかなかった。
だが、その“中”で目を覚ます日が来るなんて──誰が想像できただろう?
犬飼颯太。
医学部を中退してからは、ろくに働きもせず、今はただのニート。
朝はコンビニ弁当で胃を埋めて、昼はベッドに沈没……で、気づけば夜。
モニターの光に浸かって、はい終了。──毎日それ。
カーテンの隙間から差す陽は時間の感覚を奪って、天井のヒビだけが唯一の友達。
キーボードの打鍵音。ファンの低い唸り。……それが俺の“生活音”だった。
親は大病院の副医院長。
毎朝ネクタイを締め、黒光りする靴音を響かせて出勤する父の背中。
布団から半分顔を出して眺める俺の姿。──いやもう、笑うしかないだろ。
乾いた笑いしか出てこなかったけど。
「落ちぶれた坊ちゃん」──近所や親戚の陰口。
まあ聞こえてきても別にどうでもいい。現実で何を失っても、ログインすれば俺はまだ“勇者”だったから。
モニターの光だけは、俺を等しく照らしてくれた。
……それでも夜、目を閉じると疼く。
白衣の袖。消毒液の匂い。講義室の冷たい静けさ。
「医者になる」という夢を、自分の手で投げ出した記憶。──思い出すだけで胃が重くなる。
当然ながら、女の子と縁なんてゼロ。
大学時代に女子と話したのはゼミの実験くらい。
中退してからは会話どころか、コンビニで店員の目を見ることすら稀。
気づけば二十代半ば。彼女いない歴=年齢。通知は鳴らず、「ログイン」だけが俺を迎えてくれる。
残された世界は──ゲームの中だけだった。
《エデン・フォース・オンライン》。
数百万のプレイヤーが同時に接続する、巨大VRMMORPG。
一万のフィールド。十万を超えるイベント。
石畳の王都では人波が溢れ、露店の煙が風に流れ、鐘楼が時を刻む。
……フィールド数?イベント数? もう数字なんてどうでもいい。ただ、一歩歩くだけで現実より濃かった。
雲の上には魔法都市。空には竜。地の底には無限のダンジョン。
触れば応える触覚フィードバック。息づくNPCのざわめき。
画面越しじゃない、“本当に生きてる”世界。俺の居場所はここにしかなかった。
そこで俺が動かしていたのは、ひとりのキャラクター。
──リリア・ノクターン。
ピンクのショートボブに、澄んだ大きな瞳。
華やかで可愛らしく、胸元はしっかり“強化済み”。
走るたびに踵の金具がきらりって鳴る。……そりゃ惚れるよな。
俺の趣味とロマンを全部詰め込んだ“理想のヒロイン”だった。
(男が女キャラ? いやいやいや、うるせぇ! ロマンなんだよ、ロマン!)
彼女を動かしている間だけ、俺は強かった。仲間を助け、村を救い、笑いながら無茶もできた。
勝利のファンファーレ。ハイタッチのエモート。スクショの山。
気づけばリリアは、ただのアバターじゃなく“もうひとりの俺”になっていた。
やがて──リリアはレベル999に到達し、最強の勇者となった。
魔王を倒し、国家を統一し、神話を更新する。
ギルドチャットは祝福で埋まり、ランキングの最上段にその名が刻まれた。
それは、俺にとって最高のエンディング。
──そう、終わるはずだった。
……いや、そう簡単に終わらせてくれるわけがなかった。
ログアウト直後。
リリアは突如として消えた。
データ喪失。履歴なし。サポートはテンプレ回答。
「存在しなかったこと」にされたみたいに、彼女の名は虚空へ消えた。
俺には虚無だけが残った。
心臓を抜き取られたみたいに。
スクリーンの光が消えた瞬間、部屋の暗闇が牙をむいた。
──何もない。何も残らない。
その闇の中で。
光が差した。
⸻
気づけば俺は、あの世界にいた。
草の匂い。鎧の軋み。市場のざわめき。
剣と魔法が息づく、夢中で駆け抜けた世界。
だが──違う。
視界は低く、体はふわふわして、指が動かない。
声を出そうとしても「キュッ」としか鳴らない。
鏡に映った姿は──
……犬のぬいぐるみだった。
(……は? なにこれ……俺の勇者リリアは!? 最強ヒロイン返せぇぇぇ!!)