第1話 黒き夜闇に視えるもの
公務員3年目の吉田 九音は、この春から突然異動になった。それも、今年度から発足したという怪しい部署「訪問心霊係」に。
「ほうもんしんりょう?訪問診療ですか?」
問えば、人事課から返ってきた答えは、
「業務内容は、霊障祓いに憑物落とし、魑魅魍魎の捕獲などなど。らしいです」
そういわれても、何なんだその仕事。
ようやく2年務めた部署を早くも異動だなんて。
これはもう実質左遷なのではなかろうか。
不安な思いで向かった執務室には、赤い眼鏡をかけた男性職員が一人だけいた。
「係長の廿浦幽生だ、宜しく、吉田くん」
彼は透明なビー玉を光にかざしながら、爽やかに微笑んだ――。
************
「入庁3年めの、吉田九音です。前部署は第四児相でした、よろしくお願いいたします」4月1日の朝。礼儀正しく挨拶と自己紹介をする吉田に
「3年目なら、基本の電話応対はできるかな?とりあえず全部出て用件だけ聞いて、すべて僕に回してくれ。暇なら、そうだな……この箱の珠……ビー玉を、綺麗に曇り一つなく拭いておいて」
と廿浦は言い、空き机に置いてあるたくさんのビー玉の入った箱と用具を指した。
「え?」
白い手袋を嵌め、不思議な幾何学模様の縫い込まれた白い布でビー玉を一つずつ拭き上げるのが吉田の仕事だというのか。
まだ新設部署の初日だから、仕事がないのかな……
吉田は自分を無理に納得させて頷き、大量のビー玉と向き合った。
この時はまさか、ひたすらビー玉を拭くのが連日続くとは思わない吉田である。
それにしても。
「このビー玉、外が汚れているんじゃなくて、中が曇ってるよな」
なんで布で拭いて曇りが取れるんだ……?
吉田は首を捻った。
そして吉田が真面目にビー玉を拭く間、廿浦は何をしているかといえば。
まず、公用携帯片手に部屋を出て行って長いこと戻ってこない。
執務室に居る時は難しい顔で透明なビー玉を机に転がしているばかりだ。
公務らしいことは何一つしていない。
唯一の部下である吉田にも無関心なのか、話しかけてくるのは「吉田くん、こっちのビー玉も綺麗にしてね」と箱に真っ白に曇ったビー玉を補充するときぐらい。
他に廿浦が発した言葉は、休憩時間にスマホを見て言った、「うーん、無理だよ」という大きな独り言だけだった。
吉田は静かな一日を過ごし、
「……お疲れ様です。お先に失礼します」
17時15分。
浮かない顔で退庁し、吉田は帰路についた。
「……なんで、あんなところに異動になったんだろう。心理職関係ないし。本来なら無いはずの人事だよな」
独りぼやきながら駅へと歩く。
新卒で入庁し、勤務の傍ら心理の国家資格も取った。
同期に比べると劣る部分はありつつ真面目に職務にあたってきたつもりなのに。
やっぱり2年目の8月半ばの通院でストレスに弱いと思われたのが決定打かな。
とぼとぼと歩き、庁舎と駅を結ぶ大通りの、十字路の信号で立ち止まる。
一人暮らしを始めた去年の夏。
神経性胃炎と不眠症になって
「一人暮らしをするなり仕事に支障を来すなんてどんだけ軟弱なんだ!」と、須藤先輩に怒鳴りつけられたんだよな。
それも他の職員達もいる執務室で。
と思い返していたら、微かな胃痛とともに、ふと妙な気配を感じた。
誰かにじ~っと見られているような嫌な感じだ。
吉田がそっと辺りを見回すと、後ろの街路樹の下に金色の丸い目の黒猫がお座りして、吉田を見ているではないか。
なんだ、猫か、可愛いじゃないの。
吉田はにこにこしてそちらへ体を向ける。
通りがかった子どもが「あ、ねこちゃん!」と叫んでも、猫は逃げない。
「ユウくん、ねこちゃん見る!」と街路樹に近づこうとする。
動物と子どもの組み合わせ。ますます可愛い。
吉田は少し気持ちが和んだが、
「は?何言ってんの、猫なんて居ない居ない、さっさと行くよ!」
スーツ姿の男性がその子をさっと抱き上げ、連れて行ってしまった。
子どもと同じように街路樹の根本を見つめ、そして猫を撫でそこなった子どもを残念そうに見送る吉田を、その男性は気味悪げに振り返りつつ、足早に角を曲がって行く。
「やーー!ネコぢゃん見るのおおおおおお!」泣き叫ぶ子の声を背中で聞きながら、吉田はそこでつくねんと座っている猫に気を戻す。
逃げないなら、俺が撫でてもいいかな。
吉田が思い切ってもう一歩近づいた途端、黒猫はぶわわと毛を逆立てて背を丸めた。
金色の目が爛々と光り、吉田をぎろりと睨みつけてくる。
黒猫から渾身の「シャーーーッ!」を喰らった吉田は傷心のまま駅に向かい、ホームで電車を待った。
幸運にも、待機列の先頭にいる。
今日は座って帰れそうだなと思って少しだけ気が軽くなったのも僅かな間で。
暗い線路をぼーっと眺めながら
第四児相にいた頃は夜10時に上がっていたし、夜の線路を見れば足がついホームの端へ……。
記憶に引っ張られるようにふらりと吉田が前に一歩踏み出しかけたとき、ゴオ、と風を切って電車がホームに入ってきた。
はっと我に返り、足を引っ込めた。
あぁ、もう。必死に押し殺していたどす黒いものが、ちょっとしたきっかけで、もやもやと胸の中にわき上がってくる。
きりきりと痛みだす胃をさすり、吉田は優先席の長椅子の隅っこに座った。
発車の際、ガタン、と電車が大きく揺れ、そのままゴォンゴォンと騒音をたてて暗いトンネルに飛び込んでいく。
「あー……胃が痛い……」
揺れに身を任せ、頭を横の壁にぐったりと預ける。この通勤ラッシュの時間、車内の何処かに赤ん坊がいるようで、子猫のようなふにゃふにゃ泣く声が聴こえてくる。
須藤の声に比べれば可愛いもんだが、この混雑で押し潰されている母子がいるなら少し可哀想だな。
「……子どもを痛めつける大人から守るために子どもを施設に避難させて、そうすると今度はこっちが悪者扱いだもんな」
過酷な職務ばかり請け負わされ、日々理不尽に耐える先輩の大変さも苛立ちも、もちろん分かる。
「でも、いくら苛々してるからってさ、俺とか後輩たちに八つ当たりはねぇよな」
2年間を振り返っていたら胃の痛みがいっそう増してきて、ぞくぞくと寒気までしてきた。
それだけじゃない。
何かの視線も感じる。
さっきの黒猫の視線よりも身体にじとっと絡みつくような気味の悪い眼差しだ。
どんどん混んでくる車内で此方からは見えないが、第4児相の最寄り駅も過ぎたところだ、まさか須藤本人に見られているのか……?いやいや、さすがに自意識過剰だって!ただのストレス!
吉田は必死にその想像を払いのけ、目を瞑った。
そうして電車に揺られるうち、いつしか眠っていた……。
**************
真っ暗なトンネルのようなところを、自分は懐中電灯の明かり1つを頼りに歩いていく。
時々水溜りの泥水を跳ね返しながら、出口の見えない通路をひたすらに歩き続けている。
不意にどこからか紫の煙がもやもやと立ち込めてきて、それが触れた皮膚に黒い痣が生じる。
そしてその痣は生きているかのように、手首から腕へと這い上ってくる。
なんだコレ。気味が悪い。
振り払っても纏わりつく煙。
どんどん濃くなる痣。
怖い。誰か、助けて。
怯えてその場にうずくまると、煙の向こうからじっとりとした視線とともに、少年の声が聞こえてきた。
君、ボクをみつけてくれないくせに。
自分だけ助かりたいの。
大人ってずるいね。
でも誰も助けてくれないよ。
ボクをだーれも助けない。
君も、だれにも。助けられない。
大人なんて誰も助けてくれないよ。
君だって、そうでしょ
君には、なーんにもできないよ
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少年の嘲笑うような声が遠のき、吉田は、はっと目が覚めた。
思わず自分の袖をまくって腕を確認する。そこに痣はなくて、ほっとした。
「なんだ、夢か……」
眠っていたのはたった一駅だった。そんな短い間眠っただけで胃痛は引き、こちらを見ていた視線も消えていたのは有り難いものの、それでも夢見が悪すぎる。背中に嫌な汗をびっしょりとかいている。しかも冷房の風がひゅうひゅう吹き付けてくるせいでいやに身が冷えて寒い。
「それにしてもよ、大人なんて誰も助けてくれないってなぁ」
夢のなかで子どもが言った言葉が心に引っ掛かる。
子どもが大人へ救いを求めることを諦めたというだけでなく。
今の吉田には、大人になってしまったら、誰も大人なんて助けてくれない、という意味にも聞こえた。
自分のなかの幼い部分が顔を出している自覚はあるけれど、
「助かりたいのは、皆一緒だよな……一体誰だよ、お前。児相に来いよ、そのための公的機関だぞ」
夢の中の幼い声の主に向けて呟きつつ、今晩はこれ以上電車で眠るまいと必死に意識を保った。
というか、赤ん坊の声が、おぎゃあんおぎゃあんと泣き叫んでいてくれたお陰で、眠らずに済んだ。
電車を降り、暗くなった道を歩いてアパートへ向かう。
道中、よく構ってやっている近所の野良猫にも出会ったが、ぷいと顔を背けられ、吉田はしょんぼりと肩を落とした。
家の近くの辻を過ぎたところから、ひたひたと後ろをついてくる人の気配があって少し不気味に思ったが、振り返るとただのサラリーマンでほっとした。
そんなこんなでようやく家に帰り着き、吉田は玄関に座り込んだ。
安心したせいか、異様に疲れが襲ってきた。胃は切なく空腹を訴えてくるのに、もう飯を食べる気も起きない。
「今日は風呂入って寝よ……いや、気持ち悪い夢みたくねぇな……」
深くため息をつき、よろよろと風呂に向かった。湯船に浸かるのも億劫で、シャワーを浴びるだけにした。
「寝るか!明日も出勤!」
意を決してベッドに入るがなかなか寝付けない。
ようやくうとうとできた深夜1時。
玄関の鍵がガチャガチャと鳴って目が覚めた。
「酔っぱらいが家間違えてるのか?」
覗き窓から見ても誰もいない。
真っ暗闇が広がっている。
共用廊下には、本当なら常夜灯が点いているはずなのに。
誰もいない暗闇に、ただ鍵だけが動いて、
ガチャガチャガチャ……。
ぞっと血の気が引いた吉田は慌ててベッドに潜り込み、頭まで布団を引っ被ってがたがた震えていた。
一晩中ずっと、鍵の回る音が幻聴のように耳から離れなかった……。
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翌朝。結局、あれ以降一睡もできぬまま出勤すると、机の上には、A4サイズの箱にして5箱分も曇ったビー玉が置かれていた。
しかも
「今日は私は一日不在です。ビー玉拭き終わったら、せっかくだから早上がりしてもいいよ」と手書きのメモが添えてある。
係長と自分の2人きりしかいない部署、しかもまだ異動2日目でこの仕打ちは酷くないか……?
これはもう、仕事を与える気の無い部署、もはや左遷どころでなく退職勧告なのではなかろうか。
吉田は震えつつ、それでも文句一つ漏らさずにビー玉を拭き続けた。
この執務室には、4脚の事務机を向かい合わせにした島が一つ。
上座には誕生日席があり係長が座している。
部屋の隅には小さなシンクもあり、電気ポットやティーバッグも備えられている。
「お茶のほかに珈琲もあります。隣の部署のお茶棚に。適宜失敬してください」
というメモが置いてあり、吉田は思わず笑ってしまった。
吉田は、襲ってくる睡魔と寝不足から来る目眩と頭痛に耐えつつ、単調作業に勤しんだ。
昼の休憩時間になり、一旦、作業の手を休める。机の上の二種類のビー玉の箱を見て、
「こっちのビー玉はぴかぴか。こっちはどんより。うん、目に見えて進捗と結果が分かるのも、悪くないな」
ビー玉がピカピカになると嬉しいし、拭き終わったビー玉が増えていくのは、それだけ自分が仕事をしたということだ。
仕事の内容は疑問ばかりだが、達成感だけは得られるな。
吉田はそんな感想をいだいた。
そうだ、珈琲、飲もうかな。メモにも飲んで良いって書いてあったし。
と思いたち、吉田は隣の部署へと向かった。
「こんにちは……」
知らない職員たちに会釈しながら廊下を歩く。この庁舎は何故か中庭のある造りになっていて、ロの字の廊下をぐるりと半周したさきに“隣の部署”があるのだ。間取り的には全然“隣”ではないのだけど、このフロアにはその部署−福祉局総務部−と心霊係しか無いので、お互いが唯一のお隣さん、といったところだ。
「ねぇ、みたぁ?お隣に来た“ツヅウラ”係長〜」
総務部の給湯室は休憩所も兼ねているようで、脇のテーブルで女性職員たちがお喋りしている。
「みたみた、赤い眼鏡の渋いイケメン!もう、王子様って感じ!」
今、給湯室の茶棚を真剣に漁っている怪しい若い男性がその渋いイケメン王子な係長の部下だとは彼女たちは知る由もない。
「それにしてもさぁ、部下一人だけって……可哀想だよね、変なの押し付けられて。せっかくあの若さで係長なのに、へんちくりんな部署でしょ」
「まぁねぇ……何処でもお荷物な子を入れとく部署じゃない?ほら、公務員って、よっぽど不祥事でもないかぎりクビにできないじゃん」
けらけら笑う職員の声に、第四児相の執務室内でのことが蘇ってきて、吉田は耳を塞ぎたくなった。
昨年の冬、角田係長が吉田の後輩にあたる青年職員を
「適性ねぇんだから、自分で辞めろ。此方はクビにできないからな!」
と大きな声で詰り、
「大丈夫?無理しなくていいんだよ、まだ若いし仕事はここだけじゃない」
他の女性の先輩までもが、優しく寄り添うような顔で転職を勧めていた。その1年めの職員はとうとう心を病み、春を待たずにひっそり辞めていった。
もちろん、合わない仕事に見切りをつけるのも大事だけど。だからといって他の先輩も同期もいる部屋であんな言われよう、……辛かっただろうな。
暗い気持ちになりながらも、吉田は目当てのドリップ珈琲をたくさん失敬して、執務室に戻る。
途中、男性職員−古びた職員証には、戸井と書いてあった−とすれ違った。廊下の角を曲がったらそこに居て、吉田からぶつかりそうになったのだ。
「あ、すみません。こんにちは」
挨拶しても会釈すら返ってこず、吉田はますます気が落ち込んだ。そのまま戸井は滑るように静々と歩いて、福祉課の方へと行ってしまった。まぁ、よその部署の人間に興味ない人もいるからなぁ、と吉田は軽く肩を竦めて、戸井の痩せこけて生気のない後ろ姿を見送った。
部屋のポットに水を足して、沸くのを待つ間、自分の机の整理をする。
部署を異動してすぐで、まだ荷物は段ボールに入れたままだ。業務があるのに私物整理なんてしてたら今までなら叱責されるところで、開梱すらできていなかったのだ。
「報告書書くのとか、やっぱりここでもあるのかな」
机の整理がてら、児相勤務のときに自分で作って使っていた、文書作成の注意事項や電話応対のスクリプトなどをぱらぱら捲る。訪問心霊係は出来たばかりの部署だから、前任者も業務の手引も一切ない。
「業務教わりながら、自分で一から作るしかないけど……」
この自作手引書は、サービス残業して作ったものだ。そしたら「そんなに残業代がほしいわけ?」と須藤さんに嫌味を言われたんだよな。あー、もう。言い分は分かるが、地味にしんどかったな。
「まだ仕事も分からない新人のときに、何を工夫してやっても悪く言われるとなぁ……どう頑張ればいいか分からんくなるよな、全く……」
紙コップにドリップ珈琲を淹れつつ独り愚痴る。ぽた、ぽた、と濃い珈琲が滴るのを眺める。最後の一滴までコップに受け、机に持っていく。
芳醇な香りに少し癒やされ、吉田はほっと一息ついた。
「珈琲をゆっくり飲める昼休み……最高だぁ」
窓から中庭を見ながら、熱い珈琲を啜る。
砂利の敷かれた庭に、雨風に傷みきった鞠が転がっている。子どもの忘れ物だろうか、ボールではなく鞠なんて、随分と古風な趣味の子だ。
鞠の傍らで、丸々と太った雉鳩が数羽、雑草を啄んでいる長閑な光景。
「……夕飯、焼き鳥買って帰ろうかな」
吉田の呟きが聴こえたかのように、雉鳩は一斉に飛び立ってしまった。
その後、空腹に流し込んだブラック珈琲に刺激され、かすかに胃がきりきりするのをさすりつつ吉田は机に向き直った。
そして、ある異変に気が付いた。
「え……?」
朝拭いたビー玉が、丸1箱分、白く曇ってる……。
「まだ拭いてない箱、拭き終わったほうに置き間違えたか……?」
そっと素手でビー玉を摘み、慌てて放り出した。強い、電流の走るようなビリッとした感覚が指先を刺したのだ。
一瞬、走馬灯のように、先ほどの廊下の様子が脳裏に浮かんだ。あの戸井という職員が、廊下の角で立ち止まり、顔をゆっくり上げて吉田を見る。その眼窩は黒く虚ろで……。
ぶるぶると首を振って、吉田は頭をよぎった幻影を振り払った。
「もう、仕事に戻ろう……」
そして吉田はビー玉拭きに集中していたので気が付かなかった。
中庭に現れた大きな黒い猫がお座りをして、吉田を視ていたことに。
************
電話番とビー玉拭きに徹して数日、4月4日の木曜日。
朝8時半始業、夕方5時15分退勤。
何故か毎朝と昼過ぎに数箱ずつ増える汚れたビー玉を拭き、稀に鳴る庁内電話に出るだけで一週間が過ぎようとしている。
だが今朝は、吉田が出勤するなり、風もないのに窓ガラスがばりばりと鳴ってブラインドがばさっと落ち、部屋の電気も消えるというちょっとしたアクシデントが起きた。
「ひょぇ……すごい歓迎のされようだね、吉田くん」
と廿浦が気の抜けた声で笑っている。
吉田が大慌てで電気をつけ、ブラインドを直そうと窓に駆け寄ると、のんびりと廿浦に静止される。
「あ、さわらないでいいよ。いや、君は窓に触っちゃだめ。僕がやるから」
廿浦は赤い眼鏡を外すと席を立ち、ブラインドと窓をじっくり眺めた。
「これも綺麗にしようかねぇ、悪いモノが溜まってる」と言って、普段ビー玉拭きに使っている布巾でそのブラインドと窓を綺麗に拭いていた。
そして、そんな妙なことのあった日に限って、いくら拭いても曇りのとれないビー玉があって吉田は困惑した。拭いても拭いても、中がじわじわと曇ってくるのだ。
「なんで、ちっとも、綺麗にならないんだ」
吉田が苦戦していると、廿浦がひょいと手元を覗き込んできた。そして
「どうしても駄目だったら、こっちの箱に除けておいて」
しめ縄と御札が張り巡らされた真っ黒な木箱を渡された。
いや、もうなにこれ。触りたくねぇ……。
という気持ちを飲み込んで、吉田がおっかなびっくりその箱を受け取ると
「別に噛みついたりしないさ、触って大丈夫だよ」
廿浦はそう笑って言いながら公用携帯に出て、執務室を出ていってしまった。
「むしろ噛みついてくる箱ってなんだよ」
吉田は苦笑しつつ、その中に曇りのとれないビー玉を入れる。
「え、これも駄目だ……これも」
立て続けに“綺麗にならないビー玉”を引き当ててしまった。地味に気分が下がり、吉田は少し気を切り替えようと珈琲を淹れた。
だが、上司の居ぬ間に心地よく安らげたのもつかの間。黒い木箱の中の、白く曇ったビー玉が突然、ぱりん、ちりん、かららんと派手に音を立てて砕け散った。
「え……?」
しゅうしゅうと白い煙があがり、箱に残ったガラス片は無色透明になっていた。
そこへ、廿浦が戻って来た。
「係長、ごめんなさい!ビー玉を壊してしまいました」
吉田が黒い木箱を見せると、廿浦は
「あ、壊れるようにできてるから。大丈夫だよ。破片には触らないようにね」
と、なんでもない風に言う。
「大丈夫。気にせず、残りのビー玉をきれいにしてくれるかな?」
その返事にぽかんとしながらも、上司や先輩に逆らったり異を唱えたりしても心証が悪くなるだけと知っている吉田は、黙って廿浦に従うのであった。むしろ、怒られなかったことに安堵さえして。
今日は廿浦のところにひっきりなしに着電がある。それも庁内電話でも公用携帯でもない、普通のスマホに。
「ねぇ、いい加減にしてくださいよぉ。L県内の事件はお仕事、お仕事の依頼は県庁の窓口を通して!って……や、そりゃレイジュの貸与は助かってますけど。それ盾にアレコレ言われても、ちょっと、対応しかねます。もう。電源切っちゃいますからね、シズコさん!」
廿浦が椅子の背にもたれて困ったように言ってスマホを鞄に突っ込んだ。
そして廿浦は机と他の部屋を行き来して、地図やら古い新聞記事の切り抜きなどを持ってきて、しばらくそれらを読み耽っていた。
私物らしきノート−綴じ紐で括った謎の紙の束−と突き合わせて、腕組みをして考え込む。
そして部屋に1台だけあるパソコンに向かい、何かを検索して、印刷する。係長自ら紙の資料のファイリングなどをしているのを見て吉田は
「あの、係長。資料の整理とか、僕が」
業務として請け負おうとしたが、
「これは僕にも出来ること。第一、部下は雑用係ではない。君には僕が仕事を回す」
そう言って吉田にはやらせてくれなかった。
そして、係長の机には
『L県庁市民相談総合窓口霊障案件』というファイルの隣に、
『L県B市女子7名連続失踪事件 20☓☓年』『L・P県 小児誘拐事件 19☓☓年』
『L県 小児集団失踪事件 19☓☓年』
の3冊の“未解決事件”,それも吉田が生まれる前か赤ん坊の頃の事件,の分厚いファイルが並んだのであった。
**************
そうして迎えた、4月5日の金曜日。
吉田は朝、自宅で身支度しつつ、ん?と首を傾げた。
「あれ?腕時計、止まってる?」
入庁して直ぐに買った、秒針付きのアナログ時計だ。3時半ぐらいを指したまま、秒針もぴたりと動かない。リューズを弄って、時刻を合わせると、何事もなかったように、コチ、コチ、コチと時を刻み始めた。
「……ソーラー式だと思って買ったけど、もう止まるなんて。電池式なのか?」
時計屋で聞いていようと思いながら、いつものように左手首につけ、ジャケットを羽織ると、吉田は家を出た。昨日より一本早い電車に乗って、10分早く執務室に着く。
「……おはようございます、係長」
だのに今日も係長より早く出勤することは出来なかった。
「はい、おはよう吉田くん。今日もビー玉拭きお願いね。君が拭いてくれるとビー玉の調子がいいんだ」
廿浦は、電気ポットに自ら浄水を汲みつつ、にこやかに言った。
「ビー玉の調子ってなんですか」
少し笑い混じりに聞き返す。
「んー?そのまんまの意味だけど……、そうだねぇ、僕が拭くよりも、丁寧で良いってことだよ」
とはぐらかされつつ、吉田は今日もビー玉拭きに勤しむことになった。
今日は昼に追加のビー玉の箱がなかったので、朝渡された分が昼過ぎには終わってしまった。今は廿浦も席におり、磨き上げた箱いっぱいのビー玉を直接差し出す。
「あの、廿浦係長、ビー玉拭き終わりましたッ!」
係長の席の横に立って、両手で箱を捧げ持つ。
「あ、全部拭き終わったの?助かるよ」
とトレードマークの赤い弦の眼鏡を押し上げ、廿浦はビー玉の箱を受け取る。
「あの、ぼく、……なんで、こちらに異動になったんでしょうか」
そのまま吉田は思い切って係長に話しかけた。
「ん?そりゃぁ、君が、お化けが視える体質だからですよ」
あっさり言われ、ぽかんとする吉田。廿浦もきょとんとして
「え?人事から何も聞いてないの?だって、ここ、霊障祓いに憑物落とし、魑魅魍魎の捕獲が業務内容だからね、視える人でないと務まらないでしょう?」
と言って、廿浦はようやくこの係について説明を始めた。
曰く。
「この係の第1の仕事は、市民からあがってくる様々な原因不明の不調や怪奇現象を調査すること。第2に、それらを解決できる人材や関係機関,病院や警察などと連絡調整をすること。そうして市民の安心安全を確保し、その健康な生活に寄与するのがこの係の役割だ」
と至極真面目に廿浦は言った。
「だから、怪奇現象が起きて市民が困って役所に助けを求めてこないと我々の業務は無いんだよ。そして、暇な方がいい部署だ。医師や消防や児相のようにね」
自分らが暇なのは世が平和な証だとしても。
なぜもっとこう、公文書の作成とか様々な物品管理だとか、一般公務員の業務らしいことを自分はさせてもらえないんだ。それこそ資料収集やファイル作りとか!
不安に駆られつつ吉田は訊ねた。
「連日のビー玉磨きはいったい……」
「あぁ、これかい?これはちょっとした術具だよ。霊障に関わる際に必要不可欠。つまり、お化け退治に使うんだ」
ビー玉でお化けを退治……? あぁもう、分からんことだらけだ。
頭を抱える吉田にふふっと笑うと、廿浦は
「今日は、君も少し残業してみるか? もちろん、手当は出る」
と言った。
ん?……まるで係長は残業続きのような口ぶりだ。
「だっておばけが出るのは夜でしょ?我々の本業は、すべて閉庁後が勤務時間なのですよ」
それを聞いて、吉田は全身から冷や汗が吹き出した。
「え、じゃあ、俺、定時で、」
上がってたのは、最初から職務放棄ではないか。
焦る吉田に、廿浦が、はっはっはと声をあげて笑った。
「いやぁ、良いよ、気にしなくて。この係の新人を連れて行けるような、ちょうどいい現場がなくてね」
「いえ、あの、こ、今夜はぜひ、業務を俺にも!」
大真面目に言う吉田に廿浦は優しい眼差しを向けつつ言う。
「吉田くん。落ち着きなさい。業務の内容や時機をみて、係長の私が適切に判断して君にも配分する。安心して、しばらくは日中の業務を務めてください」
「でも、俺、もう3年め」
吉田は泣きそうな震え声で言い募る。無意識に手が胃を押さえている。
「でも、ここではまだ新人さんだよ。良いんだよ、仕事はちゃんと教えるし、君の霊を視る力も追々活かしてもらう。そんなに怯えなくていい。君の前の部署は第四児相だったね?相当いびられたのかな、あそこも業務が量,質ともにハードだもね」
ぽんぽんとあやすように吉田の背を叩き、廿浦は苦笑交じりに言った。
前の部署の角田係長とは大違いの優しさに、吉田は力が抜けて、ヘニャヘニャと床に座り込んでしまった。
「おっと、大丈夫かい?……立てる?手、貸そうか?」
廿浦が少し迷ってから手を差し伸べる。吉田は有り難くその手を借りようとして……思わず手を引っ込めた。
廿浦のワイシャツの右手首から一瞬、紫色の煙が漏れ出し、どす黒い痣も見えたのだ。
……異動初日の帰りの電車で、吉田が夢に見たものに酷似している。
だが、吉田が目をこすってもう一度見たときには、黒い痣も紫の煙も消えていた。
何だったんだ、今の。
吉田が何度も瞬きをして、廿浦の右腕を見つめても、そこにはワイシャツの袖を纏った腕があるばかり。
「僕の……同性の手を触るのなんて、嫌だよね、ごめんごめん」
薄く微笑む廿浦だが、赤いフレームの眼鏡越しの眼差しは何かを警戒するように鋭く吉田を射抜いている。少し怯えているような色も感じる。傷を負った子どもが、目の前の大人を信用に足るか品定めするような、そんな眼差しだ。
「い、いえ……触りたくないなんて、そうじゃなくて!」
廿浦の目に吉田は慌てて弁明した。
「痣と、煙みたいなのが、見えて……」
吉田の言葉に、廿浦は驚いたように目を瞠り、そっと右腕をおさえた。そして、
「それなら君の霊視の力はそこそこあるね。僕の良い相棒になってくれそうだ。今夜、さっそく期待しているよ」
目つきをふわりと和らげてそう言った……。