プロローグ 紫煙の先に分かつもの
「おいでなさい、……そして御帰り」
闇の中で、スーツ姿の男が甘やかに囁く。
その足元で、何かの図形を描くようにいくつも並べられた透明な水晶の小さな珠が、ほんのりと暖かな光を放ちだす。
そこへごうごうと咆える風が吹き付けてきて、その光り輝く珠を揺らす。
「すべてあまねく迷えるもの、祀ろわぬもの……」
強風にたじろぐことなく、男は微笑を浮かべ、落ち着いて目を閉じると呪文を唱えた。そして、何かを迎え入れようとするかのようにその腕を広げた。ふわふわと浮遊する青い灯が、男の右の手首に嵌めた水晶の腕輪にすぅと吸い込まれた。いくつもいくつも、弱々しい青い灯が男の腕に逃げ込んできて、そっと消えていく。だが、男が突然に、かっと目を見開いた。
眼の前の闇が、意思を持つもののようにゆらぎ、膨れ上がるのが彼の目には視えていた。その奥から、刺すような、憎悪に満ちた眼差しを彼は確かに感じた。
そして、
《テシくん……テシくん……》
自分を呼ぶ声を、聴いた気がした。
「まさか、あなた、なの、ですか……、ハルくん」
男は瞠目し、怯えたように切れ切れに言うと、震える手でスーツのポケットから白い布切れの巾着を取り出した。それを必死に振る。
からころ、からころと軽やかな音を立てて中のものが鳴るや否や、足元で五芒星の形に並ぶ水晶の珠から光の柱が立ち上り、男を囲む壁を織り成した。
その周囲を黒い靄が取り囲み、つむじ風が男に襲いかかるように吹き付けてくるが、光の柱と視えない壁が男を護る。
《どうして……テシくん……》
「ごめんなさい。それでも私は、あなたにはついて行かない……!」
男は耳を押さえて、叫んだ。
光の柱が、一層強く眩しく輝き、黒い靄を振り払う。
《ひどい……テシくんだけ……ずるい、ずるいよ》
おうおうとむせび泣くような音を立てて風が巻き上がり、蠢く闇がずるりずるりと退いていく。
やがて、柱も光も消え、再び辺りは静かな夜の闇に包まれた。
男は戦慄く指先で、足元の水晶の珠を拾い集める。美しく透明だったそれは、どんよりと白く曇っている。
不意に、大人の骨太の指が纏わりつくような、べたついた圧迫感を右手首に感じ、彼は息をつめた。
その手首から紫の煙のようなものが立ち昇る。
男はがたがた震えながら、縋るように右手首の腕輪を服の上から握りしめた。腕輪の珠の優しい冷たさが、人の手の幻触を消してくれる。
それに深く息をついて、男は疲れたように呟いた。
「全く。蠢くの字の通り、春はどうにも……妙なものが表側に這い出てきますね……」
ビー玉ほどの大きさの水晶の珠を、ちゃらちゃらと巾着に入れて、ジャケットの内ポケットにしまう。
「今日はもう、帰りましょ。つかれるわけにもいかない……」
そうして男は、目頭を揉みつつ赤い弦の眼鏡をかけた。そして、山の隧道の暗闇に背を向けて、靴音を響かせながら、街灯りの方へと歩き去った……。
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