ゴレスターンの怪異
ゴレスターン。ずいぶんといかつい語感だが、ペルシア語で薔薇園を意味する。ゴルで薔薇、スターンは国の名の語尾につくのでおなじみ。二つ合わせてという訳である。
そう。これは、かつてペルシア帝国のあった地。現イランの南部、ファールス州にあるフィールーザーバードでのお話。頃は11世紀末、セルジューク朝の第3代マリク・シャーの死後の混乱の時代。
「ひゃっ。くすぐったいよ」
僕は想わず声をあげていた。少女が僕のほっぺ、その怪我したところを舐めあげたからだった。
ここは伯父(母の兄)の薔薇園。僕は母と叔母(母の妹)に連れられて、ここに来ていた。2週間ほど滞在する予定だ。母によれば、そろそろ薔薇水が作られるはずだから、もらいに行くわ、とのことであった。
彼女はその薔薇園での追いかけっこが大好きだった。いつも、僕をそれにいざなう。僕も大好きだ。ただ、それが、追いかけっこの方なのか、少女の方なのか、ときどき、分からなくなるけれど。
僕の名前はマスウード。幸運を意味する。これまでは、僕の人生にそんなもの、どこにあるのさって感じだったけれど。ここに来てからは、少し違う。
僕より少し小柄。そして良く薔薇の茂みに逃げ込む。まるで、猫のように、自らはぎりぎり通れるところを見定めて。なので、僕にはすぐに傷ができてしまう。そこを彼女が舐めてくれるのだ。腕であれ、足であれ、今日のように顔であれ。
「おいしいの?」
その表情は明らかにうなずくものだったけど、
「ううん。私が好きなのは漂う血の香りよ。とても薄いけど、とても甘やかなの。血そのものの味は濃すぎるの。私の母上は、何であれ、血にジャブジャブ付けて食べるのが好きなの。体に良くないわ、止めるようにと言っているんだけど。ここしばらくは我慢してくれてるみたい」
「血を?」
冗談だろうか? 僕が小首をかしげると、同じ方向へかしげる。とてもかわいらしい。僕はそれを問うのを止め、もっと気になっていたことを問うことにした。
「君の母上。見えなかったんだけど。なぜだろう?」
今度、困るのは彼女の方だった。押し黙っている。
最初にここに来たとき、伯父は新しい妻として、彼女の母上を紹介した。そのあとも、食事のたびにその人は同席したみたいだけど、その姿も見えないし、声も聞こえなかった。ただ、他の3人――僕の母さんと伯父、叔母はその人と楽しげに談笑していた。僕一人、のけものだった。僕が変なのだろうか? そう想っていたこともあり、これまで誰にも聞けなかった。ただ、彼女が変な冗談を言ったこともあり、僕が変なことを聞いてもいいような気がしたのだ。
「母上は隠れるのが上手なのよ。子供に見つかるようなへまはしないわ」
ようやく出て来た少女の答えに、僕はすぐに応じていた。沈黙が辛かったのだ。
「そうか。君と同じなんだね」
少女が僕の言ったことが分からないとの表情を見せたので、慌てて付け加える。
「ほら。だって、君のことを僕の母さんに紹介しようとしたら、とてもいやがったじゃないか。なんで、そんな意地悪するのって。だから、てっきり、君は隠れるのが好きなのかと」
「そう。そうよ。私と一緒。だって、親子だもの。でも、私も母さんも、本当は追いかけっこの方が好きなの。さあ、私をつかまえてみて。いつまでも、つかまえられないと、私が追いかけることになるわよ」
そう言うなり、彼女は駆け出した。
滞在は一週間延びた。その帰路、薔薇水を入れた瓶がぶつかりあってガチャガチャと音を立てる中、僕は馬車の揺れが心地よいこともあり、昼にもかかわらず、うとうとしていた。
母と叔母の話し声が聞こえて来る。その言葉を追おうとするが、強烈な眠気のためか、しばしば意味をくみ取れなかった。
「でも、兄さん。楽しそうだったわね。奥方を亡くしてからは、人が違ったように荒れていたから」少し間延びした感じの叔母の声だった。
「それが、急に薔薇園――代々、受け継がれて来たけれど、誰も面倒みなくなって、すっかり荒れ果てていたみたいだけど――そこに、一人閉じこもったと聞いて、最初は何をしているんだろうと想ったけれど。良い方向に向かっているみたいね」
「でも、姉さん。どうしよう。夫たちにありのままを報告すべきかしら?」
「よしましょう。あんなに幸せそうなのよ。私たちが合わせれば、いいだけよ。それに、ほら、薔薇水だけでなく、薔薇油までくれるんだから。こんなのスルターンの后妃でもなければ、得られないものよ」
「ほんの。ちょっとだけどね」
「贅沢いわないの。兄一人で作っているんだから。昔は、人をやとって、周辺の丘からも大がかりに薔薇の花びらを集めていたそうだけど。それに、兄のためだけじゃないの。この子のためでもあるのよ。この子があんなにはしゃいでいるのを見るのは、初めてかもしれない。友達も作らず、いつも一人でいる。それは、薔薇園でも変わらなかったけど。それに自分から進んで兄の手伝いをし、更には、僕も薔薇水を作ってみたいなんて言うのよ」
なぜか、母の声は震えていた。
「そうね。それを習いたいというからね。帰る予定を変えたのよね」との叔母の声も、涙ぐんでいるようで、やはり震えていた。「もし、マスウードが望むなら、あすこを継げばいいわ」
「いいの? あなたの大事な双子――ロクサーナーとヌールは欲しがらないかしら?(注:双子の名前はともに光を意味する)」
「娘たちは薔薇水は欲しがるでしょうけど。もちろん。薔薇油もね。でも、作る方には興味を持たないわね。だって、姉さんだって、そうでしょう。あんな面倒くさい。恐らく兄さんは独り身のまま、死ぬわ。だったら、マスウードしかいないじゃない。ねえ。薔薇油ができたら、まずは、叔母さんにちょうだい。お願い。娘たちは、しばらくは薔薇水で十分よ。」
そう言う、叔母の手が肩に置かれたのを感じ、僕は一度、目覚めかけるが。
「お嫁さんにしてくれる?」そんなことを言ってくれる女の子は初めてだった。そもそも僕は手をつないだことさえない。エクボを浮かべた彼女の頬は、園もその外も埋め尽くす可愛らしい野薔薇と同じ色だった。その甘い想い出が、僕を眠りに引きずり込む。
母さんたちの会話は続いていた。
「でも、マスウードは一人っ子よね。義兄さんの仕事を継ぐ方はどうするの?」
「領地経営の方は、有能な家人に任せればいいわ。それに、私自身、まつりごとに関わるのはどうかと想うのよ。この前もニザーム・アル・ムルク様が暗殺されたばかりじゃない。あの大宰相でさえ、身を守れなかったのよ。そんなことになるなら、薔薇園で安楽に暮らした方がどんなにいいか」