感染症
「……う……どこだ? ここは……」
目覚めた時。
翔の目に飛び込んできたのは、妙に煤けた合板の天井と、大時代なLED照明であった。
どうやら仰向けに寝ているらしいと気づいたのは、十数秒経ってからだ。
寝かせられていたのは、表面が錆びて塗装もあちこち剥げた、鉄パイプ製のベッドである。上体を起こしてみるが、ひどい眩暈がして、またベッドに横たわった。
顔が火照り、息苦しい。頭痛がする。喉の痛みもある。
経験したことのない症状だが、昨夜の注射弾と関係があるのかどうかは、わからなかった。
「気が付いたか。おまえは運がいい」
声が聞こえて首を巡らせると、そこには一人の男が立っていた。
あの時は暗がりだったせいで、顔はよくわからなかったが、声からすると翔に注射針を撃った男のようだ。
白衣を着込み、手にはまた注射器を持っている。
どうやらガラス製らしい注射器は、指で押して薬剤を注入するタイプらしい。そんな古い医療器具を、翔は記録映像でしか見たことがなかった。
「……貴様……毒でも盛りやがったのか……?」
怒鳴ったはずの声は弱弱しく、のどの痛みのせいかひどくしわがれて聞こえた。
「昨日の注射のことを言っているなら、違う。あれはワクチン……予防薬だよ」
「『ワクチン』?……て何だよ……」
「簡単に言えば、後付けの免疫さ。君も彼女も、死ぬところだった」
「免疫? いや、死ぬところ…だって?」
「君らが戦って殺した犬神は、体液で感染する致死性の病気にかかっていた。発症したせいで凶暴化し、障壁を破って『外』に出たのだ」
「あんな化け物が……病気になんかなるのか?」
「哺乳動物なら、大概感染する病気なんでな。巨獣も人間も例外じゃない。そして発症すればほぼ百パーセント死ぬ」
にわかには信じがたい内容を、こともなげに口にした男。だがその言葉には、真実のみが持つ重さが感じられた。
「そんな病気……聞いたこともねえぞ。」
「外界では、完全に撲滅されて数世紀経つからな。だが、このバイオーム内ではまだ存在する。あの娘は運がいい。俺たちが犬神のために大型注射器を用意していたから、発症前に打てたが、ワクチンから製造していたら間に合わなかったところだ」
「おまえら……何者なんだ?」
「俺は佐々江竜典……まあ、リュウって呼んでくれ。この町についての説明はおいおいするさ。おまえが生きてたらな」
「この頭痛……俺は発症したってことなのか?」
だとすると、自分は死ぬのか。翔の背中に戦慄が走る。
だが、リュウと名乗った男は、軽く笑って否定した。
「いやいや……それもウイルス性の病気には違いないが、ただの感冒だ」
「かんぼう?? ウイルス……って、あの遺伝子組み換えに使う……」
「まあ、間違いではないが、そのたぐいの野生株……人間の管理していないウイルスだよ。外界では野生の病原性ウイルスはもういないんだったな。」
聞いているうちに、どうしようもなく喉がつらくなり、翔ははげしく咳き込んだ。
「外界から来たからには、その手の病気に、一通りかかることは覚悟しておいてくれ……なあに、一か月も寝込んで生きていれば、その後はかかりにくくなる」
「生きて……って……」
「病気だものな。死ぬこともあるって話だ。心配するな。死亡率は高くない。聞きたいことは多いだろうが、おいおい話す。その熱じゃ話しても無駄だろうし、時間はたっぷりある」
そう言うとリュウは、翔の腕につながっている点滴の容器に先ほどの注射器から薬品をくわえた。そして、今、四十度近い発熱であることと、寝ているようにだけ告げて、立ち去った。
どうやら点滴に、症状を抑える薬品とともに鎮静剤か何かを入れたということらしい。
急に襲ってきた眠気に、翔はまた意識をなくしていった。
だが、ゆっくり眠れたのはその時だけだった。
それから約一週間。
眩暈と激しい頭痛、寒気、咽頭痛と間断なく襲ってくる咳の発作に、眠ろうにも眠れない日が続いた。
たまに様子を見に来るリュウの話では、医薬品は非常に希少で、症状を抑えるためだけに多用はできないらしい。
とはいえ、栄養点滴の効果があったようで、一週間後の朝、翔は生き返った気分で目覚めることができた。
「食事……って『ミール』じゃねえのか……」
運ばれてきた朝食は、なにやら粒の入った、白く半透明なペースト状で、ほとんど味がなかった。だが、口に含むと枯草と汗の混じったような臭いがして、思わず吐き出しそうになった。
「お粥は口に合わなかったですか? そこの塩か醤油をかければそこそこ食べられるようになりますよ」
看護師らしき女性のアドバイスに従って、見たこともない茶色い液体をかけてみると、強烈な香りと塩味で、格段に食えるようになった。なにより、食欲をそそる舌への刺激がある。
旨味というものを感じたのは、翔にとって生まれて初めての経験だったのだ。
そのことを、ちょど回診に来たリュウに言うと、呆れたような顔をした。
「『外』の連中は不憫だな。食い物の楽しみを知らないなんて、人生の90パーセント損してるだろ」
「食べ物で困ったことはない……必要な栄養はミールとドリンクで十分だし……味だって、電子食器でどうにでもなる……」
「どうにでもなる……か。だが、知らない味は表現しようがないだろ? おまえらの『味』は、バリエーションが少なすぎるんだよ」
リュウはそう言って、手持ちの小さな容器から、何か赤く丸い物体を、翔の『粥』の上に置いた。
「試してみな。最初はちょっと強烈だと思うが、そのうちクセになるぜ?」
物体にはしわがあり、粥に触れた部分には赤い色がついている。スプーンでつつくと柔らかく、皮を破ると中からゲル状の中身が見えた。
「うお⁉ なんだこれ⁉ 酸……か?」
以前、毒物劇物の資格試験実習の時、なめてみた塩酸のような刺激。だが、それ以上に強い塩分も感じられる。
思わず顔がゆがむほどの、強烈な酸味と塩味であった。
最初はとても食べきることはできなかったが、それから数日もすると、美味い、と感じるようになり、それなしでは物足りないと感じるようにさえなっていった。
体は少しずつ楽になり、食が進むようになると、料理も様々なものが出されるようになった。
病人食の範囲ではあったが、旨味の濃い煮物や、魚の身を焼いたものなど、翔にとってはどれも経験したことのない味と食感であった。
翔の病気は、軽快と重症化を繰り返しながら、次第に症状が軽くなっていき、リュウの言った通り、一か月も経つと普通に過ごせるようになっていった。
部屋から出ることを許された時、翔が目にしたのは、緑の広場の真ん中で向こうを向いて座っている巨大な人間……『リベルティナの中身』だった。
彼女が手を動かすたびに、子供たちの歓声があがる。
どうやら、子供たちを手に乗せて遊んでいるようだ。最低限の装甲だけを選んだのか、頭部と胸部、腰回り、肩、前腕、そして膝下のブーツ状のパーツだけを身に着けている。
それ以外の部分から真っ白な肌が見えているのが、妙に煽情的で、翔は思わず目をそらした。
「お……おい」
後ろから声をかけられた、リベルティナの中身=ニナは、肩をビクンとすくめ、頭部装甲のバイザーを慌てて下ろした。
そして、おそるおそる、といった様子で振り向く。
『翔。もう出ても良いんだね』
「おう。おまえもな。病気、大丈夫だったのか?」
『私もずっと寝込んでたよ。三日前くらいから動けるようになった』
「……顔、見せろよ」
「え? なになに? なんか集音機の調子が悪くて聞こえなかったんだけど?」
見え透いた態度である。バイザーの下で泳いでいる眼球の動きが見えるようだ。
無理やり話題を変えようとしているリベルティナ=ニナに、翔は言った。
「何でだよ? その子たちには顔見せてたじゃねえか」
「こ……この子たちはいいの。機密、漏れないし……」
「ハァ? 俺が約束守らねえとでもいう気か?」
「そそ……そういう意味じゃなくて」
ニナがしどろもどろで言い訳しようとするところへ、白衣姿のリュウがやって来た。
「二人とも、元気になったな。これからどうするかは、君らに任せるが……まずは礼を言いたい。『犬神』を救ってくれてありがとう」
「あの巨獣のことか? 俺たちは……戦って殺したんだぜ?」
「犬神はすでに発症していた。ああなっては、まず命は助からない。だが、まだ発症してない子犬を連れて来てくれたからな。これで犬神の系統を存続させることができる」
翔は、それまでため込んできた疑問を、リュウに一気にぶつけた。
「犬神を守るって、巨獣は敵じゃねえのか? ここは何だ? おまえら、一体何者なんだ? バイオーム内は立ち入り禁止じゃねえのか?」
一か月前にした約束もある。
翔に質問する権利はある、と思ったのか、リュウはやれやれといった様子で軽く肩をすくめると、あきらめた様子で言った。
「もちろん立ち入り禁止だ。俺たちは、このバイオーム生態系の一部として生息している生物だと思ってくれ。そういう存在だ」
「何? どういう意味だ?」
「言った通りだ。俺たちは、代々この地に住んでいてここから出たことはない。生物学的には人間だが、外界には戸籍もなにもないんだよ」
「バカ言え。じゃあ何で外の様子を知ってんだよ?」
「障壁は電波を通すからな。外界の情報は把握してるのさ。俺たちは自分のことを、『G・O・W』……ゴウと呼んでいる。語源はよく分からん」
「GOWか……」
「『巨獣』について、だったな。正直、なぜ巨大化するかは俺達にも分からないが……彼らは、もともと普通の野生生物だった。それが、急に巨大な個体が現れるようになったってことだ」
「それじゃあ……バイオーム外に現れていた巨獣どもも、地球の、普通の生物だってことか?」
「たぶん……な。技術的問題で詳しくは調べられないが、遺伝的にはノーマル個体と全く同じだ。バイオーム内の野生生物とその生息環境を、維持保全するのが俺たちの役目なんでな。『犬神』も保護対象ってことだ」
「なるほど、ところで『野生生物』てのは何だ? 管理されてない生き物がそのへんを――ウェッ⁉ なんだこれ⁉」
重ねて質問しようとした翔の頭に、バケツ一杯ほどの液体が落ちてきた。
驚いて振り向くと、その液体は、リベルティナの頭部装甲からしたたり落ちている。
「な……まさかお前、泣いてんのか?」
「……ごめん。びしょ濡れにしちゃって……汚いよね……」
「それはいいけどよ……どうしたんだよ?」
「私……自分が普通じゃないって思ってたから……」
それ以上は言葉にならず、しゃくりあげている。
「なるほどな。君は、人間の巨獣……だったな」
「『獣』って言うな。こいつは『人』だ」
翔が短く、だが強い調子で言った。
「悪かった。言い直そう。君は人間だ」
リュウの言葉に、ニナがうなずく。
「で? おまえ、本当の名前は? 大谷慎っての、偽名だよな?」
翔の問いかけに、ニナは
「……苗字は三筋川……フルネームは言えない」
「ミスジカワ? 長ぇ。ミスジ……いや変だな。スージーでいいか?」
「あ、うん。それでいい」
ニナは、涙声のままで言った。
「『野生生物』について、だったな。君ら『外』の住人は、野生生物なんか見たこともないと思うが、俺たちにとっちゃ珍しいものじゃない」
リュウは、『野生生物』という概念を二人に教えた。
ほとんどすべての生物が管理下にある『外』では、人間が放った生物しか野外に存在しない。自然が回復した場所、といわれるようなエリアも、植物はすべて植栽由来だし、勝手に住み着いている生物も、人間が放したものの末裔ばかりであった。
「じゃあ何だ? もともと地球てのは、何百種類もの生き物が何の管理もされずにそのへんに生きていたってことか?」
「地球、って言い方するなら『何百万種』だ。地域で偏りはあっても、どこでも数万種は普通にいた……らしい」
そんな話は、翔もニナも聞いたことがない。
歴史の教科書にも書かれていなかった。そんな話をにわかに信じることができず、二人とも息をのんでいる。
「そもそも逆なんだ。人間は何百万種もの生物のうちの一種で、その生物同士の関わり合いの中で進化し、生きてきた。このバイオーム内では、その状況が不完全ながら残されている、というわけだ」