筑波山
「おっはよー!! リュウ!! あんた何眠そうな顔してんのよ⁉」
「よぉ……おはよう……フツー眠いだろ。まだ5時だぜ?」
十五メートルの上空から降ってきた元気な声に、リュウはしぶしぶといった様子で返事を返した。
「いくら筑波山まで行くっつったって、この時間はねえだろ……まだ真っ暗じゃねえか」
顔を上げないままで、リュウはボヤいた。
十月も半ばである。
東の空は、もう薄明るくなってはいるが、景色の輪郭はまだ、ぼんやりした薄暗がりの中にある。見渡すと、同学年の約三十名が、もう校庭に集まっているようだ。
「ね。見て見て~私の脚線美」
再び頭の上から降ってきた声を、リュウは敢えて無視して反対方向へ歩き出す。
何を思ったのか、真珠は、ホットパンツにTシャツという露出度の高い姿で、今回の校外学習に参加してきたのだ。
「ばかやろう。今日は山登りだって言ってんだろ!! そんな恰好で、手足すりむいても知らねえからな!!」
振り向かないまま怒りの声を上げたリュウに、また頭上から声が降ってきた。
「何言ってんのよ。すりむけるもんならすりむいてみたいくらいよ」
「バカ。そんな言い方すんな。俺が悪いみたいじゃねえか」
自嘲気味に言った真珠に、リュウは言った。
言葉は荒く、顔はそっぽを向いたままではあるが、その声には優しい響きが感じられる。
実際、真珠の体は、最近ますます強靭になってきている。
筋肉や骨の強さはもちろん、肌もちょっとやそっとでは傷つかないほど厚く、固くなってきているのも事実だ。
次第に『普通』からかけ離れていく真珠。
だが、それでもリュウは、真珠が普通の女の子であるように接し続けていた。
そしてそのことを、真珠もまたよく分かっていた。
「ん……えーと……第一、登るったって、『障壁監視署』まででしょ? そんな暑そうな重装備、あんただけだよ」
真珠の言う通り、厚手の作業服と手袋、山刀まで装備しているのはリュウしかいない。
この時期、さすがに暑さはゆるんできていたものの、まだ最高気温が二十五度を下回ることはない。
『障壁監視署』とは、このバイオームの外と中を隔てている量子障壁の状態を、二十四時間監視している施設のことである。
数人の人間が、交代で常駐しており、障壁の異常を感知した時は外と中、両方の管理当局に連絡を取る役目があった。この日の校外学習は、この施設を見学する社会授業を兼ねていたのだ。
「あ……夜明け……」
リュウが見上げると、強い光が真珠の顔を白く照らしている。
(綺麗だ……)
眩しそうに手をかざす真珠は、まるで女神のように見えた。
輝くような白い肌と、艶やかな黒髪。思わず見とれている自分に気づき、リュウは視線を無理やり引きはがし、校庭の向こうへと移した。
村の外れに見える、小さな丘に朝日が昇りつつある。
藍色だった空が青紫に変わり、一気に見慣れた蒼空へと変わっていく。気づくと、周囲はすでに明るくなっていた。
「よーし!! じゃ、出発するぞ!! 皆、シシ車に乗れ~!!」
担任の平牧教諭が、大声で叫ぶ。
リュウたちは、巨大なシシたちに引かれた二台の客車に、半分に分かれて乗った。
客車に乗れない真珠だけは、徒歩で後ろからついてくる。
到着は、三時間後くらいになるはずだった。
シシ車は、木製の荷車である。本来は、重量物を運搬するために作られたものだが、座席を設置することで、人を運ぶようにもできる。
引いている家畜動物の『シシ』は、2t以上ある巨大な四つ足獣で、変異した巨獣ではなく、「中」にいる野生のイノシシを選抜改良したものである。
急がせても時速二十キロほどしか出ないのだが、エンジンやモーターといったものが無い「中」では、舟以外では唯一の運送手段といえた。
シシ車の足回りは旧文明の大型トラックのものを流用していたが、筑波山への道は、かなりな悪路である。大昔のアスファルトにはヒビが入り、剥がれ、あるいは陥没してしまったため、それを砂利などで埋めて補修していくうちに、ほぼすべてが砂利のようになってしまっていたのだ。
思うように速度を出せないまま、ようやく登り口に差し掛かった時には、もう10時近くになっていた。
そこからは、コンクリート舗装された山道が始まる。
アスファルト舗装が劣化してしまうほどの時間が経過しても、コンクリートはまだその形状と十分な固さを維持していた。
ようやくスムーズに動き出したシシ車は、これまでの遅れを取り戻すかのように速度を上げている。
「あれが……量子障壁……」
真珠が呟いた。
蛇行する山道から斜面の下を見ると、不思議な光を放つ壁が見える。その壁は、透明でありながら、そこに何かあることを感じさせる程度に、薄く光を放っていた。
障壁は、筑波山の頂上の方まで続いていた。たしか地図上では、そのまま筑波山を両断し、巨大な円形を描きながら、太平洋の方までつながっているはずだ。
「見えるのか? 障壁?」
シシ車からリュウが顔を出す。
「うん。下の方。見えない?」
だが、道脇の植物が邪魔になって、リュウの高さからは量子障壁は見えなかった。
上の方にも量子障壁はあるのだが、比較するものがなく、薄い光が太陽光と混ざってしまって分からないのだ。
「なぁに。君らが行くのは、その障壁の監視所だ。到着すれば嫌でも見える」
シシ車の手綱を握る御者の老人が、笑って言った。
「それにしても……」
御者は、道の先に目をやって首をかしげた。
「なあ先生……おかしいですな。あの斜面、あんな状態でしたか?」
あと二十分ほどで目的地、という場所である。
筑波山の山腹が、目の前に広がっている。本当なら一面の針葉樹の森であるはずだ。
「む……たしかに……どうして岩肌がむき出しになっているんだ?」
平牧教諭も自分の目を疑った。
先日下見に訪れた時には、そこはたしかに森だった。だが、そこにあったのは、ごろごろと大きな石が転がる岩場なのだ。
(崖崩れ……? にしてもここ数日、嵐どころか雨も降っていないのに?)
平牧教諭は、後続のシシ車を停めさせてから声をかけた。
「どうしたんです? 何かトラブルですか?」
二番手のシシ車から、眠そうな顔の若い女性教諭と年配の男性教諭が降りてきた。
「臼川先生、瀬田先生、どうも道の様子がおかしい。何か災害が起きているかもしれない。あなたはここで生徒たちを見ていてください」
平牧教諭はそう声をかけると、一人で山の方へと歩き出した。
「どうするんです?」
臼川教諭が、後ろから声をかける。
「とりあえず様子を見てきます」
平牧は、一人で二百メートルほど歩き、岩肌の見える斜面に近づいた。
斜面が崩れて埋まっているかと思った道は、意外にも土砂に埋まっておらず、崩れてもいない。一見するとどうも、斜面に生えていた樹木や植物だけが、消え失せただけのように見えた。
「何なんだいったい……ん? あれは……?」
平牧教諭は、視界の端に不思議な揺らぎを捉えた。岩肌の斜面の方に見えたそれは、まるで炎の周囲に見える揺らめきのような、だが、それよりももっと大きな、不思議な現象であった。
平牧教諭が、そちらに向けて歩き出そうとした次の瞬間。
「危ないッ!!」
とてつもなく大きな声。
聞きなれたその声が聞こえると同時に、視界が真っ暗になり、平牧教諭は自分の体が後方へ大きく引き戻されるのを感じた。
続いて、低い唸り声と、生臭い息。
何かを引き裂く音。
そして、食いしばった派の隙間から漏れ出たような、呻き。
「くうっ……」
「その声……真珠君か⁉ 何だこれは⁉ 大丈夫か!!」
視界は相変わらず真っ暗だ。真珠の大きな手が平牧教諭を包み、何者かから守っているのだ。
それが分かっても、平牧教諭には何をすることもできなかった。
*** *** *** ***
「何だアレは⁉」
「巨獣⁉ でも……姿が……見えませんよ⁉」
臼川と瀬田の二人は、口々に驚きの声を上げていた。
シシ車の御者たちは、凍り付いたまま息をのんでいる。
騒ぎに気づいた生徒たちが、シシ車の幌の中から顔を出し、口々に騒ぎ出した。
「何だよあれ⁉」
「まずいんじゃね? 真珠、やられてる」
「真珠を助けてよ!! 真珠が殺されちゃうよ⁉」
奥の方にいたリュウは、その声を聴いて、慌てて皆を押しのけて前に出た。
「真珠だって⁉ 何だ⁉ 何があったんだ⁉」
リュウの目に飛び込んできたのは、尻もちをついた姿勢のまま、仰向けに空を蹴りつける真珠の姿だった。
平牧教諭が、何度も転びながらこちらへ走って来るのも見える。
「何もいない……? いや違う⁉ 何だ!?」
リュウは、自分の目を何度もこすった。
風景の一部が揺らめいている。真珠がその蹴りつけるたびに、その揺らめきが強くなり、何かの輪郭を形作っているようであった。目を細めて見ると、それが何かの生物であることが分かる。
「巨獣だ!! 透明な巨獣がいるんだ!! 何か武器は無いか!!」
平牧教諭が叫んだが、校外授業に弓の一本も持ってきているはずがない。
それに、弓矢や鉈があったとしても、巨獣に通用するとは思えなかった。
「おい!! お前ら、シシ車から降りろ!!」
突然叫び出したのはリュウだった。
考え付いた策を実行しても、時間稼ぎにしかならないかもしれない。
だが、真珠の脚にはすでに幾条もの傷が走り、そこから血が滲んでいるのだ。その場しのぎであろうと、やるしかない。
強靭な巨人の皮膚だからこそ何とかなっているが、人間並みの強度であったら、今頃致命的な傷を負っているであろう。
とにかく、一瞬でもいいからあの目に見えない敵の気を逸らし、真珠の態勢を整えさせなくてはならない。
「あんたもだ!! 早く降りろ!!」
リュウは、最後まで席を離れない、律儀な御者を羽交い絞めにして立たせる。
「な……何をする⁉ 危ねえッ!!」
抵抗しようとした御者を、リュウは乱暴に突き落とし、手綱を奪い取った。
「行けえっ!!」
そう叫ぶと、リュウはいつも腰に差しているナイフを、シシの腰のあたりに思い切り突き刺した。
シシの操り方など知らない。だが、とにかく今はコイツの力が必要なのだ。
「ブゴーーーーーッ!!」
シシは一声大きく叫ぶと、やみくもに前に向かって突っ走った。
向かう先には、真珠がいる。そして透明な巨獣。
「真珠―――ッ!! 避けろーーーーッ!!」
リュウは叫びながらシシ車から飛び降り、ごろごろと転がって衝撃を殺す。
だが、勢いを殺しきれず、そのまま崖から落ちそうになるところを、山道脇にあった石柱のようなものに偶然ぶつかって、ようやくリュウは止まった。
背中を強く打ち付け、一瞬、飛びそうになった意識を、シシの悲鳴と木製の車が何かに激突する激しい音が引き戻す。
「リュウ!! 大丈夫⁉」
真珠が這いずるようにして、リュウの傍らへやって来た。
「油断するな! あのくらいじゃ巨獣は死なねえ!!」
リュウは、心配そうにのぞき込んできた真珠に向かって叫んだ。
すると、真珠の背後から、何か軽い木でもへし折るような音が連続して響いてきた。
そして、さっき突撃していったシシのものと思われる、布を引き裂くような甲高い悲鳴。
真珠は、慌てて透明巨獣の方へと向き直った。
「ひっ……」
再びしりもちをついた姿勢になって、真珠は絶句した。
七~八メートルの高さに、シシが浮いている。まるで犬かきのように四肢を必死で動かしているが、まるで効果は無いようだ。その腰のあたりが空中に溶けていることから見ても、透明な巨獣に咥えられ、持ち上げられているのは間違いないだろう。
また、木をへし折るような音が響いた。透明な巨獣の牙が、シシの腰骨を砕いたのだ。
空中のシシから大量の血液が、地面に滴り落ちる。
「真珠……そのままゆっくり退くんだ……シシが食われているうちに……逃げるぞ」
リュウが静かな声で言う。
だが、真珠は首を左右に振るとゆっくりと立ち上がった。
「ダメだよ。この子は……ここでやっつけないと……」
そう呟きながら、拳を握って構えた真珠は、強い目で透明な巨獣のいるはずの場所を睨みつけた。
「真珠……おまえ……」
見る見るうちに真珠の肌の質感が、固くざらついたものに変わっていくのを、リュウは信じられない思いで見ていた。




