ポセイドン
剛秀たちが、反逆の意思を固める一日前、まだ、松笠局長に翔の救出を訴えていた頃。
翔とニナは、バイオーム内の利根川河口域付近までたどり着いていた。
「見えてきたぞスージー。あとは、この細い道をずっと行けばいい」
翔が、ニナの肩の上で立ち上がった。
目の前には、砂でできた細い陸地がずっと続いている。陸地の幅は、五十メートルから百メートルくらいだろうか。その左側には波の打ち寄せる海が、右側には濁った水面と葦原が広がっていた。
海と湖を隔てる砂の道、とでもいうべきものが、十数キロにわたって続いているのである。
「海……か……久しぶりに見たな」
翔が、しみじみとつぶやいた。
昔、海には多くの魚介類が生息し、人間はそれを採捕して食料としていたらしい。
そのことは、翔も歴史の授業で習っていた。
だが、数十億にまで増加した人口が必要とするたんぱく源としては、あまりに資源量が不安定で脆弱だった。人類はそのことに気づかず、数世紀にわたって野放図な利用を続けた挙句、いくつかの魚種が絶滅したのである。
それでも人類は、対象魚種を変え、あるいは養殖技術を開発して利用を続けた。
そして絶滅種が十数種を越え、その他の海洋生物もさらに減少し始めたことで、すべての海洋生物の一定期間採捕禁止、という、前代未聞の決定が下され、実行された。
あらゆる漁業はもちろん、養殖業も餌料の採捕ができなくなり休業した。食卓の上から海洋生物が一切なくなって、初めて人類はその重要性に気づいたとされている。
だが、採捕の全面禁止から数年経っても、海洋生物の生息数に回復の兆しは見えなかった。そして結局、二度と魚介類が人々の食卓に上ることはなかったのである。
その頃、ちょうどバイオーム計画が実行されたのは、海洋生物たちにとっては幸運だったといえるかもしれない。隔離することによって、バイオーム内だけは海洋生物の生息数が回復し始めたからだ。
ただバイオーム内の海には、沿岸性の生物しかいなかった。ゆえに、外洋性の大型生物はすべて絶滅したと考えられていた。
「……おなかすいた」
そう言って、ニナがため息をついた。
『弁当』とリュウの差し入れのパンを食べてから、もう二十時間以上、キャンプ地を出てからでも十時間以上経過している。1tタンクに水だけはもらってきていたが、携帯食料は用意していなかった。
海の美しさより、空腹の方に思考が行くのは、無理もない。
「まあ、もう少し我慢しろよ。政府の研究施設には、食料くらいあるだろ」
銚子の『研究施設』への道のりは、巨獣の邪魔こそなかったものの、その地形のせいでかなり時間がかかり、ニナの体力も消耗したのだ。
バイオームの量子障壁は、低分子の気体や液体は通すため、海水面の上昇の影響をもろに受けている。
本来であれば、利根川の河口域は平野部になっているはずだったが、河幅は広がり、霞ヶ浦と一体化していたため、障壁沿いに点々と残った遺跡や陸地で休憩しつつ、泥沼を歩かされる羽目になったのだ。
ニナの身に着けている装甲は、結局アンダーウェアなしの必要部分だけ、という軽装であった。翔は嫌がったものの、装甲の大半を置いて来なかったら、とてもここまでたどり着けなかったかもしれない。
「魚や動物は結構見かけるけど、食っていいモノかどうか分からねえしな……」
翔もニナも、自然物そのものの植物や動物が食べられることは理解していた。
だが、これまで食してきた固形食糧の安心感にはかなわなかったのだ。自分でとらえた生き物を捌いたり、処理して調理する、などという感覚は持ち合わせていなかったのである。
「ねー……誰かいるよ?」
その時、ニナが遠くから歩いてくる人影を見つけた。
「たしかに。なんだあいつ?」
遠くの砂浜を、こちらに歩いてくる黒い人影が見えた。
なにかボロ布のようなものを纏っているようで、それが風になびいて、まるで死神か何かのように見える。
手には棒のようなものを持っているが、それが武器なのかどうかも分からない。
ただ、そのゆっくりした足取りからは、こちらに敵対するつもりがあるようには見えなかった。
「あんたたちが、外から来たっていう駆除隊の人か⁉」
先に声をかけてきたのは、その人影の方であった。
その風体から予想したよりも張りのある、若い男の声である。
「そうだ!! 俺たちを知ってる……ってことは、あんたがトミーさんか⁉」
翔はそう聞き返すと、ニナの肩からロープを使って滑り降りた。
通常であれば、かなりな技術を必要とする高さである。だが、翔はもともと訓練を受けている上に、泥沼を行く間にも障害物の確認や、装甲に引っかかった塵芥を取り除くために、何度か滑り降りているうちに、慣れてしまったのだ。
砂浜に降りた翔が歩み寄っていくと、男はなぜか露骨に嫌な顔をしていた。
「ちっ……早戸のやつめ。またそんな呼び名を広めやがって……」
「え? お名前、違うんですか?」
ニナが驚いた様子で聞き返す。頭部装甲に隠れた、キョトンとした表情が見えるようだ。
「まあ、そいつの言うトミーってのは俺のことではある。本名は武蔵十三郎。ムサシって呼べ」
「む……ムサシ、さん?」
「おう。「たけくら」ってのは武蔵って書くんだよ」
「なるほど」
わざとまじめな表情を作ってうなずきながら、翔は裡で笑っていた。
「トミー」ことムサシは、ミツハのことを苗字の早戸で呼んだ。
どうも互いに呼び方にこだわりがあり、それがズレているようだが、憎みあっているわけではなさそうだ。
「お世話になります。俺は河山翔。翔と呼んでいただいてけっこうです」
「あ……あの、私は……その……」
翔の自己紹介に続いて、しゃべりだそうとしたニナを、ムサシが片手をあげて制した。
「あんたのことは聞いてる。本名、言えないんだってな。スージー? って呼べばいいのか?」
「あ、はい。ありがとうございます‼」
ぺこりとお辞儀をしたニナを、ムサシはまぶしそうに眺めた。
「おまえら、疲れてんだろ。日も暮れるし、うちで休め。明日の朝、研究施設まで送ってやる」
ムサシはそう言うと、踵を返して歩き出した。
翔も、その後に付いて歩きだす。ニナの肩に乗って行った方が早い、とは思ったものの、さすがに会ったばかりのムサシに、それを勧める気にはなれなかったのだ。
ニナは、少し困ったような様子でその場に佇んでいたが、ゆっくりと二人の後をついて歩き出した。とはいえ、彼らの数十歩を一歩で済ませてしまうわけで、かえって歩きにくそうであった。
それに気づいたムサシは、ニナを振り仰ぎ、微笑む。
「あ? そうか、悪いな嬢ちゃん。じゃあ、翔、あんたはスージーに乗せてもらいな。俺も、乗せてくれる仲間を呼ぶ」
そう言うと、ムサシは口に指を咥え、鋭い指笛を鳴らした。
「え……? 仲間?」
翔が疑問を口にするその前に、海側の水面が割れて、黒い塊が飛び出してきた。
周囲に激しく海水の飛沫が飛び、黒い塊からも滝のように流れ落ちる。
その塊は、ニナと同程度の高さにまで頭を伸ばし、こちらを向いて甲高い声で叫んだ。
「クォオオオン!!」
全長は約50メートル。
つやのある黒っぽい体。
まん丸い大きな目。
ひれ状の前足。
口元からは白く太いヒゲが数十本、カーブを描いて喉元へ垂れていた。
巨獣である。
しかし、いったい何が巨大化したのか。翔もニナも、このような生物は見たことがなかった。
「こいつは『ポセイドン』。トドの巨獣だ。俺の相棒だよ」
ムサシはそう言うと、大きな声で笑った。
*** *** *** ***
「……大きな倉庫ですね」
ニナはそう言ったが、窮屈そうに体育座りしている姿からは、逆の印象を受ける。
梁までの高さは十五メートル以上あるようだが、ニナはかがまないと中に入れないのだ。
「取引が終わったばっかでな。ほとんど空になっててよかった。ここはな、『外』に出す食材をストックしておく場所なんだ」
倉庫は、少し奥まった場所に生活しているエリアがあり、ムサシの声はそこから聞こえる。
「食材……ミツハさんも、そうおっしゃってましたけど、俺たち、『外』で野菜や肉なんか見たことも無いんですけど……」
「まあ、そりゃそうだろう。バイオーム内は狭いんだ。大した量は輸出できねえのさ。そういう食材は、いわゆる超富裕層ってやつしか、口にしてないんだろう」
ムサシが、皿に乗った料理を持ってきて、翔の前にあるテーブルに置く。
「お嬢ちゃんのぶんは、あのくらいでいいか?」
指さした方には、ドラム缶があって、何かがぐつぐつと煮えていた。
その隣には、数メートル四方の鉄板があり、その上で焼かれた何かの肉の塊がある。
「はい。意外と小食なんで」
くすりと笑って答えたニナに、ムサシは顔を崩して笑った。
「わっはっは。そりゃ失礼した。さあ、食おうか」
そして、翔とともにテーブルに着くと、軽く胸の前で手を合わせて箸をとる。
翔もそれに倣って、手を合わせてから箸をとった。
出された料理は、一見すると適当に作ったように見えたが、食べてみるとすこぶる美味かった。空腹だったせいもあるが、翔もニナも、ほとんど口も利かずに食事を終えた。
「……あの、ポセイドンって巨獣は、どうしてムサシさんが?」
食後に出てきた、熱いお茶をすすりながら翔が聞く。
ポセイドンは、あきらかに飼育されている。それをする理由。それは、ここにムサシが一人でいる理由と関係があるのかもしれない、と思ったのだ。
「バイオーム内の海は狭い。ポセイドンほどの巨獣が好き勝手したら、魚を食いつくしかねないからな。海魚だけじゃなく、いろんなものを食わせるには、飼うしかなかったんだ。それには、『外』への食材の集積地であるここが都合よかったのさ……」
なるほど、と翔は、裡で頷いていた。
だが、それと同時に、もう一つの疑問を口にせずにはいられなくなる。
「『中』の人たちは、巨獣を忌み嫌ったり、むやみに殺したりしないんですね……どうしてなんですか?」
翔がそう言うと、ムサシは少し自嘲気味に笑った。
「村の創始者が、そういう考えだったのさ。その地で進化した生物は、生態系の中でなんらかの役割を負っている。どんなものでも尊重するべき……ってな。ただ、実際のところ、巨獣は規格外すぎる……正しかったのかはわからん」
「お荷物……ってことですか?」
そう聞いたニナの声は、少し震えている。その意味を感じ取ったのか、ムサシはあわてて否定した。
「いやいや。ポセイドンはいい相棒さ。ああ見えて『外』との交渉の際の用心棒として優秀だしな。荷の受け渡しの時は、いつもそばで睨みを利かせてくれてるんだ……」
ムサシの表情は優しい。
無理に理由をつけた言い訳などではなく、ポセイドンに大きな信頼を寄せているのは真実であろう。
「……このバイオームができた時、偶然二十頭ほどのトドの群れが閉じ込められたらしい。そいつらの子孫の中から、百年目にして巨獣化するやつが出た。それがポセイドンだ」
「二十頭……この狭い海で、餌を食い尽くさずに生きていけるんですか?」
翔が思わず聞く。
トドという生物は知らないが、あのポセイドンの姿から考えて、たとえそれが巨獣でなくとも、生態系に与える影響は小さくないと思ったのだ。
「バイオーム内の海生生物の生息密度は、そうなる前の数倍になってる。海の生物生産量は、トドの捕食などものともしないほど大きいようだな。それに、一番たくさん魚を捕食する大型動物がいなくなったからな」
「大型動物?」
「『人間』だよ。昔の漁師は、魚を食い尽くすとか言ってトドを駆除してたらしいが……」
皮肉な話であった。
結局、人間がもっとも海洋生物を搾取していたことが、人間が生態系から切り離されることで証明されたわけだ。
「でも……今も、お魚を捕って食べているんでしょう?」
「そうだな。村でも食べるし、『外』への『輸出』もしている。ただな。世の中全部を相手にした商売と、自分達が食べる分プラスアルファ程度では、比較にならないみたいだな」
ムサシはそう言うと、竹製のコップをあおった。
「何すかそれ?」
飲み物に興味を持ったのか、翔が聞く。
「酒だ。自分で作った、な。お前も飲んでみるか?」
「さ……サケ?」
「なんだ。『外』じゃこの程度の嗜好品も無くなっちまってんのか。まあ、飲んでみろ」
勧められるままに、竹コップをあおった翔は、思わず咳き込んだ。
「げほ。げほげほ。何ですこの……辛いというか、甘いというか……」
「それが酒の味だ。木の実や穀物を発酵させたモンだよ。慣れればやみつきに……ああ、そうなったらまずいかもな。おまえら、明日には外に帰るんだっけか」
ムサシはそう言うと、また豪快に笑った。
「もう寝ろ。明日は研究施設の連中と交渉だ。ま、こちらからの要求は何もないし、すぐ帰れると思うぜ」