子犬
「ふううううう……」
ニナは大きなため息をついた。
頭部装甲のバイザーを外し、それを容器代わりにして、頭から川水をかけたのだ。
それだけでも、生き返ったような心地になる。
戦闘時にかぶった泥と、シルルスの解体で手にこびりついた生臭さ、だがそれ以上に嫌だったのは汗の臭いだ。
リベルティナの装甲は、長時間装着することを前提としてはいないため、動きやパワーをアシストする機能には優れていても、通気性……というか居住性が良くない。
装甲に居住性というのも変な話だが、実際に様々な点で問題があった。
完全装着すれば、防水性も機密性もあるが、今のようにパーツを部分的につけた状態では、電子機器が浸水してダメになる。内部の温度調整機能はあるものの、換気能力が低く、蒸れやすい。
装甲をすべて洗えないのは辛かったが、アンダーウェアだけは洗濯できるのが救いであった。
装甲をすべて外し、全身を覆うダークグレーのアンダーウェアを脱ぐと、輝くような白い裸身が露わになる。
長く伸びた手足には、健康的で無駄のない筋肉がしっかりとついている。
肩幅は広くはなく、どちらかといえば細身の方で、女性らしい丸みがある。
八頭身どころか、十頭身はあるところを見ると、もし普通の人間だったとしたら身長は百八十センチ近くだろうか。
艶やかな栗色の巻き毛が、胸のあたりにまで垂れている。
ニナは、まずその長い髪を洗い始めた。
川は浅くはないが、身長二十五メートルの彼女にとっては、一番深い場所でも膝まではいかない。
その水を、容器代わりのバイザーで汲んでは、何度もかぶり、髪の汚れを、全身の汗と泥ごと洗い流していく。
シャンプーも石鹸も無いのが残念だったが、何もしないよりはずっとマシだと思えた。
そろそろ太陽も傾き始めてはいたが、天気は悪くない。おかげで、寒がらずに水浴びすることができた。
全身をなんとか洗い終え、アンダーウェアを着込もうとしたその時。
一キロほど向こうの森が、大きく揺れた。
(巨獣⁉)
ニナの警戒レベルが一気に上がる。
あの動きは生物。それも、並の生物の大きさではない。
つまり、大型化した生物=巨獣であることは疑う余地はなかった。
*** *** ***
人間と隔離することで、これ以上の生物の絶滅を防ぐ。
そしてパンデミックを引き起こす、厄介な病原体も同時に封じ込める。そのために作られたのが、バイオームだったはずだ。だが、バイオーム内で何かが起き、普通の生物が『巨獣』に変わったのではないか。
(地球を『原野』に戻す……まさかそれが巨獣の……存在理由?)
翔がそう考えながら、遺跡を目指して歩き始めた時。
遠くから、規則正しい地響きが近づいてきた。そして、あの優し気な声が響き渡る。
「翔‼ どこ‼ 水浴び終わったよー‼」
(スージー……あいつに地球を原野に戻す衝動がある、とは思えないけどなぁ……)
苦笑いしながら叫ぶ。
「ここだ!! すぐそっち行く‼」
すると、思ってもみない返事が返ってきた。
「あ、だめ‼ こら‼ そっち行かないで‼」
「え?」
首を傾げたその瞬間。
目の前に生い茂る木々をかき分けて顔を見せたのは、全長十メートル級の真っ白な巨獣であった。
あの日、翔たちがこの『中』に来るきっかけとなった、リュウたちが「犬神」と呼んでいた肉食型巨獣の子である。
巨獣の子は、翔を見つけると甲高い声でけたたましく吠えた。
巨獣に吠え付かれて一瞬焦った翔だったが、声量は大きくても、その声質は威嚇ではなく、甘えを含んでいる。
ホッとして緊張を解いたところへ、後ろから現れたニナが巨獣の子を抱き上げた。
「ごめん。なんか急に森から飛び出してきたの」
たった一か月でこれほど大きくなっていたとは、翔も思わなかった。
とはいえ、丸みのある顔といい、伸びきっていない脚といい、いまだ幼さが残っている。
地上に下ろされた巨獣の子は、ニナや翔が親の仇とも知らずに、無邪気に尻尾を振り、ニナの足にまとわりついた。
「何だ? そいつの背中……?」
あまりに目まぐるしく動くため気づかなかったが、よく見ると幼巨獣の背中には、毛色と同じ、白っぽい袋がくくり付けられている。
袋、といっても厚手の布製で三メートル四方はある。
こんもりと膨らんでいて、何か丸い中身が想像できた。
「こらっ‼ 動かないで‼ 外せないじゃない‼」
ニナが、幼巨獣を叱りながら、ようやくその背中から袋を外す。
中に入っていたのは、手紙と巨大なパンであった。
そのパンに貼り付けてあった小さい紙きれを、翔が読む。
「そのパン。弁当の追加らしいぞ」
「追加?」
「あれだけの巨獣だ。いくらなんでも、捕獲に2,3日はかかると思ってたらしい。せっかく焼いたんだから食ってくれ、とよ。そのサイズの生地を膨らませて、生焼けにならないように焼くのって、物理的不可能領域に近いらしい。製法は秘密だと」
くそ真面目な印象の強いリュウにしては、遊び心のある差し入れであった。
だが、手紙の続きを読んで、翔の表情はこわばる。
“『外』から通告があった。機動兵器リベルティナの返還要求だ。どうやら、衛星から彼女の動きを見ているらしい。ふざけたことに翔君、君のことは一切触れられていない。一か月以上も放置しておいて、あまりに身勝手だと私は思う。君たちが帰還するというなら止めはしないが、ここで暮らすというなら、それも我々は歓迎する”
「どうしたの翔? なんか他に書いてあった?」
急に黙り込んだ翔の様子を見て、ニナは不思議そうに言った。
かがんだニナの大きな影が、翔の上に差す。ふと見上げた翔は、思わず声を上げていた。
「ば……馬鹿野郎‼ ちゃんと装甲付けろよ‼ アンダーウェアは⁉」
子犬とパンのことで気づくのが遅れたが、ニナはまたあの時の姿……広場で子供たちと遊んでいた時のように、アンダーウェアを着けずに、腰や胸など、要所だけを装甲で隠して、素肌をあらわにした格好をしていたのである。
しかも、かがんだことで装甲の隙間から胸の一部が見えてしまっている。
頭がフルフェイスの装甲であることがシュールだが、もしそこに美女の顔でもあろうものなら、卒倒していたかもしれない、と翔は思った。
「だって、急にこの子が飛び出してきたから、アンダーウェア着る暇なかったんだよ。それに、もう戦闘終わったんだから、この方が動きやすくていいんだもん」
「だ……ダメだ‼ ちゃんと着ろ‼ お……俺だって健康な男なんだぞ‼」
「はっはーん……翔、私のこと気になるんだ?」
「き……気になるわけねえだろ‼ 俺には好きな娘がいるって言っただろうが‼」
つい語気が荒くなった翔に、一瞬はっとした様子のニナは、うなだれて目を逸らす。
「そっか……そうだね……ごめん」
自分を「ニナ」だと認識していないのに、魅力を感じ、気にしてくれているらしいのは、正直うれしい。
その上、チャットでしか会ったことのない「ニナ」へ操を立ててさえくれている。
だが、逆に自分の正体があの「ニナ」だとわかった時、翔はどう思うのだろうか。
嘘をついていた、真実を隠していた自分を責めるだろうか。
もし許してくれたとしても、体の大きさの差はどうしようもない。万一、恋が実って交際するにしても、その先のことにしても、どうするのか。ニナには未来が描けないでいた。
少ししゅんとなったニナに、翔がしどろもどろで言い訳する。
「ああいや……おまえが気にならないってんじゃないんだ。ただ……ただよ……二人っきりになったから、好きになるなんて……なんか卑怯な気がしてよ」
「卑怯?」
「だってそうだろ。顔も見せない、名前も言わない、ってことは、お前は俺にそんな気はないってことだ。なのに、勝手にこちらから好意を持つのは……よくない」
「……私が巨人だからって言わないんだね。そのことは……どう思ってるの?」
「あ、そうか。忘れてた」
「え?」
「そういやおまえ、巨人だったんだな。忘れてた。どうでもいいことだからさ。おまえはその……人間としていい奴だし、女性としても魅力的だ。顔隠してても、つきあい短くても、それくらいは分かる」
「あ……ありがと……」
「だからさ。落ち込むなよ。きっと俺なんかより、ずっといい相手が現れるから」
(いないよきっと……翔以上にいい人なんて)
その言葉は、口には出せなかった。
眩しそうに、こちらを見上げて微笑む翔。
頭部装甲のおかげで表情が見えなくてよかった、とニナは思いながら、うなずいて見せるのが精いっぱいだった。