遺跡
「舌ぁ噛んじまったぜ……」
へたりこんだニナの肩の上で、翔は苦笑いしていた。
あらためて見ると、大きい。
巨獣・シルルスは、全長120メートル。黒褐色の背中部分とは違い、腹側は明るい黄土色であった。
巨大な顎のある頭部にはムチのように長いヒゲが二本ある。目は非常に小さく、ほとんどわからない上に、エラ穴も体の下方にあった。最初の作戦通り狙っていたら、まず勝てなかったであろう。
大きくため息をついたニナは、よろよろと立ち上がった。
「疲れたぁ……ここに岩がなかったらヤバかったよ……って何コレ? 地震⁉」
足元が突然動きだして、ニナはまた身構えた。
「違うぞスージー‼ あれを見ろ‼」
翔が指さす先を見ると、泥の中から巨大な頭が突き出ていた。
角も耳もなにもない、角ばった感じの、黄土色をした頭部は、感情を表さない丸い目でニナたちを見、そしてゆっくりと動き出した。
「ひっ……これ……背中だ……」
固い岩の水底だと思っていたその場所は、新たに現れた巨獣の甲羅状の背中の上だったのである。
巨獣の背中から滑り落ちてみると、そこはニナの膝くらいまである深さだった。
水草や泥を背中に乗せたまま動きだしたその巨獣は、頭だけで約5メートル。
伸ばした長い首は、ニナの身長を越えていた。甲羅の全長は百五十メートル近く。幅も数十メートルはありそうであった。
平たいドーム状の背中を持つその巨獣は、自分の背中で行われた戦闘には興味を示さなかった。威嚇するでもおびえるでもなく、無表情のまま水中をゆっくり歩きだし、頭を水中に沈めると、そのまま沖へ向かって泳ぎ去っていった。
「す……すげえ……」
二人とも、しばらくは呆気にとられて、巨獣が泳ぎ去った方角を見ていたが、ニナがはっと我に帰った様子で言った。
「どうしよう。コレ。このまま放っておいたらまずいよね?」
コレ、とはシルルスの死体のことだ。
この広い湖である。水に浮いた状態の死体は、どこに流れていくかわからない。
「ああ……さっきみたいな化け物がいるんじゃ、何かに食われちまうかもしれないしな……あそこに見える遺跡? に運ぶか」
翔が指さした先には、かなり大きな人工建造物らしきものがあった。
二階建てくらいのコンクリート製の建物のようだが、壁面はツル植物に覆われている。細長い建物で、二百メートルほどはありそうに見え、一階部分のガラスはほとんど割れていた。
建造物の前には、植物の生えていない地面が広がっていて、あそこまで運べば、シルルスを陸上に置いておくことができる。
「ん……じゃ、私が運ぶから、翔はリュウさんに連絡入れて。うまく仕留めたから回収部隊、寄越してって」
「オッケー」
そう言って、陸地に飛び降りた翔は、先に遺跡の近くに行って通信を始めた。
幸い、応答はすぐにあった。獲物の回収隊は数時間あれば到着するとの返事だった。
「リュウさん、連絡ついた?」
ニナがやって来た。
肩に、釣り具から外したワイヤーをエラのところ掛け、それでシルルスを引っ張り上げてきたようだ。
「ああ。なんとか。『中』の無線って出力低いのな。夕方までにはこっち着くって。もう捕まえたのかって驚いてたよ」
「シルルス……腐らないかな?」
「内臓だけ出しておけば、大丈夫だろうってよ」
「内臓……私がやるの?」
「まあ……悪いが、俺じゃ手も足も出ねえな」
ニナは頭部装甲のバイザーの下で、大きなため息をついた。
二十分後。
巨大なシルルスの体は、内臓を抜かれた状態で遺跡の前庭部分に引き上げられていた。
口からエラへ鋼線が通ったままである。
ニナはシルルスの横で、またへたり込んでいた。
翔は、遺跡に興味を持ったらしく、入り口の扉をガチャガチャと動かしていた。
「ふうん……旧時代の扉にしちゃ、立派だな。何やってた施設なんだろな?」
「ね……ねえ? 私……水浴びしたいんだけど……あと、おなかすいた」
「ん? ああそうだな。でも、湖は泥だらけだし、あんな巨獣がいちゃ、危ないな。あの森の向こうを見てみよう。川があるかもしれねえ」
翔は、ニナの肩部装甲の座席によじ登った。
ニナは、少し小高くなった森を登り、向こう側を見下ろした。翔の予想した通り、湖に流れ込む川がいくつか見える。
「やった。川があるよ。結構水もきれいっぽい」
「よし。じゃあ、俺はさっきの遺跡で待つから、水浴びして来いよ。弁当はさっきの建物のところで食おう」
リベルティナの背部装甲は、固形燃料の装着部が空洞になっていて、そこに弁当として食料を詰め込んできていたのだ。
「ここで待つの? 何もないよ?」
「スージーの水浴びをのぞくわけにはいかねえからな。だが、誰もいないとは限らねえから、気をつけろよ?」
「う、うん。ありがと」
ニナは、翔が降りやすいようにかがんだが、その前に翔は、装甲を伝ってさっさと降りてしまっていた。
「ちょっとこのへん、探検して来らあ‼」
その声は、もうニナの後ろの茂みの中から聞こえた。
*** *** ***
林床を歩き出してすぐ、翔は、足元の感覚が土とは違うことに気づいていた。
(石?……いや、これはアスファルトだ。つまりもともとここは、道だったってことだな)
ところどころ崩れたり、土砂に覆われたりしてはいるものの、確かにそれは道の名残であるらしい。
さっきの遺跡から続いているのだとすれば、関連する建造物もあるかもしれない。
そう考えて歩を進めていく。
すると予想通り、行く手の茂みの中に、また別の人工物があるのが見えた。
それは、先ほどの遺跡と同時代のものと思われる形状であったが、ずいぶん小さい。また、壁面がコンクリートのむき出しではなく、レンガ状になっていて、そのせいかツタに覆われてはいなかった。
だが、根っこのついたままの大木が倒れ掛かっていて、玄関と思われる部分が、大きく損壊している。
(旧時代の民家……か? あるいは宿泊施設かもな。文字とかは今と同じみたいだが……)
看板の文字はすでになかったが、中の壁にかかったポスターらしきものに書かれている文字は残っていて、普通に読める。
倒木に破壊されるまで、中はそのまま保存されていたようで、誰かが出入りした形跡もなく、埃すら大して溜まっていない。
ほんの数日前まで、誰かが利用していたかのようなその建物は、まるで翔自身が、大昔にタイムスリップしたように感じさせた。
当然のように電灯はつかなかったが、破壊された玄関の屋根から入ってくる自然光のおかげで、薄暗がりながら中の様子は分かった。
建物は鉄筋造りながら、一部が住宅のような構造になっていた。居間とキッチンのようなものがあり、それ以外の部屋は二つ。
空っぽの棚が並び、表示されていることでようやく図書室とわかる部屋と、やはり空っぽの金属の棚が並ぶ、こちらは倉庫のような部屋があるだけであった。
どの部屋も、ほとんど物が置かれておらず、何も残っていないようだ。
(あれ? ノート……か?)
図書室に、一脚だけ残されていた机。
その上に、妙に丁寧に置かれていたのは、古いノートの束であった。
この施設が、バイオームが作られた際に放棄されたとすれば、数十年、もしかすると百年近くは放置されていたはずだが、数冊のノートは多少色変わりしてはいるものの、大して劣化していないように見えた。
そっと持ち上げて裏表紙を見ると、持ち主のものらしい、M・Oというイニシャルが書かれている。
(上質和紙……? 長持ちする紙ってことか。窓がふさがれてるのもよかったのかもな……)
タイトルの書かれていないそのノートには、品質を示す文字だけが印刷されていた。
蔵書の日焼けを嫌ったせいか、図書室には小さな窓があるだけで、その窓も暗幕でふさがれていて外光が入っていない。
紙が劣化していないのは、品質だけでなくそのせいもあると思われた。翔は、ノートの束から一冊手にとり、そっとページをめくってみた。
内容はどうやら日記であるらしい。そこには、几帳面な手書きの小さな文字で、びっしりと文章が書きこまれていた。
『2030年12月8日
今年も本州の川にギンザケは一匹も遡上しなかったようだ。食文化の根本である生物多様性の恵みがなくなることに、どうして皆こんなに無頓着なのか。絶滅してしまえば、いくら環境を再生しても、彼らは戻ってこない。まだ絶滅していないものもいる。なんとか環境を再生するための合意形成ができないものか』
『2038年4月12日
日本産イワナ類全種の絶滅宣言。昨年から源流の最高水温が20度を越えるようになったのだ。無理もない。いくばくかの地域個体群が、飼育下で保存されてはいるが、もう彼らの戻れる川は存在しない。大きな転換点が訪れたように思う。「手遅れ」という言葉が浮かぶ』
『2040年8月31日
野生トキの再絶滅宣言。一時は数百羽まで回復したはずだったのに。だが、すでにドジョウもフナもいなくなった水田地帯で、よく持った方ではないか。いや、人間の給餌に頼っていたのだから、とっくに絶滅していたといえるのかもしれない』
飛ばし読みしてみたが、どのページにも、生物のことばかり書かれている。それも、次第に数が減り、消えていく様子ばかり。その合間に、聞いたことのない長い名前の生き物の分類や標本の記録。どうもノートの主は、自然科学系の研究か何かをしていたようだ。
(2060年4月……これが最後か)
『バイオームを作るのはいい。だが、生物の行き来を完全に遮断するのは、断固反対だ。生態系は、生き物同士がつながり、関係しあってこそのもの。それぞれの種類を生き延びさせるだけでは意味がない。病原体を封じ込める、と政府は言うが、ウイルスも細菌も寄生虫も、すべて生態系の一部なのだ。ひずみが起きないはずがない』
そして、最後の行には、日付のない一文。
『地球は原野に戻りたがっている。おそらく我々が想像もつかない未来が待っている』
翔は、ふうっとため息をついた。
その一文だけは、殴り書きのように違うペンで書かれている。予言めいた言葉が、妙に引っかかった。
もしかすると、ノートの主は誰かにこれを読ませたかったのではないか。
コンクリート製の施設は、放棄されれば、誰の興味も引かず、光も入らず、空気も動かない。ノートを劣化させずに、次代の誰かに読んでもらうためには、これほどうってつけの場所はないように思えた。
「この男……M.Oってヤツは、どこへ行ったんだ? 」