10代 少年
LAST END
少年がゆっくりと目を開くと、そこは雪国のような白い世界だった。足の底も白かった。もしかすると透明な雪が白く見えるように、何色もない透明な世界なのかもしれない。
少年は不安な心地になってその場にしゃがみ、体操座りをした。そして膝を抱え込み、顔を埋めて自ら黒い世界を作った。
「次の人」
女の人の声がした。
頭の中に直接響く声で、少年のことを呼んだ。
しかし、少年は体操座りのまま、動かない。
「いつまでそうしているつもり?」
直接頭の中に響いてくるその声が、少し語気を強めたような気がした。ぼうっとしたまま顔を上げてみると、白いドレス姿の女の人が立っていた。年齢は四十歳くらいで、片腕に大きな本を抱えている。百科事典のような大きな本で、厚さは五センチほどある。そして不意に現れたオーケストラの指揮者の譜面台のようなそれに、本を置いた。
真っ白な世界に、不可思議な現象。少年には計り知れないものが多すぎた。何とか絞り出した言葉は、少年の居場所を問うものだった。
「ここは、天国ですか?」
「あなたは自殺したので地獄へ行きます」
女の人は平坦な声で、しかし少年を軽蔑したような眼差しで答えた。女の人にぶつけた疑問には答えられていない。そう思っていると、女の人は続ける。
「ここは、地獄ではないの。これからあなたを地獄へ連れて行きます。私はその案内人です」
結局ここがどこかは分からずじまいだけれど、きっと天国と地獄の分岐点なんだろう。女の人は案内人と言った。そうか、地獄へ連れて行かれるのか。少年がだんまりを決め込んでいると、案内人と名乗る女の人はさらに続けた。
「地獄に行く前に、ひとつだけ。願いがあれば叶えましょう」
「どんな願いでも?」
「叶えられることでしたら」
少年は即座に問うた。自殺をしたくせに、おこがましいと思われただろうか。ううんと唸りをあげながら、少年は思案する。
少年が考え込んでいる間、暇を持て余した案内人は先ほどの本をひっくり返して背表紙から捲る。最後の一ページ。
「いじめを苦に自殺」
少年の頭の中に、案内人の声で自殺の動機が呟かれた。少年は聞こえなかったふりをして、考えているように見せかけた。
「復讐とかダメよ、私にはそういった能力は無いからね、つまずかせて転ばせるくらいでしたらできるけど」
案内人は少年の境遇に同情したのだろうか、相変わらず機械的な声で、そう言った。だが、やはり自分の未練など分からなかった。死んでしまってから叶えたいことなんて。
「誰か会いたい人はいるの?」
「会えるの?」
「様子を見るくらいですが。触ったり、声をかけたりすることはできかねます」
「それなら、優弥くんに会いたい」
少年がそう答えるなり、案内人はもう一冊同じような本を出現させて最後のページを開くと「では行きましょうか」と少年に手を差し出した。おそるおそる少年も手を前に伸ばせば、その手をきゅっと掴まれる。
「はぐれないように」
心なしか優しさを含んだ声で案内人は少年に忠告し、程なくして二人は白い世界から消えていった。
次に少年の視界に入ったのは、ちょうど日が暮れ始めた空だった。河川の堤防に、自分はいるらしい。遠くには鉄橋が見えた。
ここは、と少年が尋ねる間もなく前方から自転車に乗った高校生が猛スピードで向かってきた。
--危ない、ぶつかる!
少年は反射的に身体をこわばらせ、目を閉じた。しかし何の衝撃もなかった。咄嗟に後ろを振り返ると自転車は変わらず凄い速さで走っていった。
--身体を通り抜けていったのだ。
少年と同様に後ろを振り返り、「……自転車乗りたいな」と呟く案内人を呆然と見つめていると、少年の視線に気がついたらしい。
「たまに見える人がいるのよ」
案内人は、服装が変わっている理由だけを説明して、本を開く。そして案内人は河川敷を指差した。つられてそちらに目線をやれば、そこには少年が会いたいと願った優弥くんがいた。膝上くらいの高さまでぼうぼうに伸びた草の中、膝を立てて座り込んでいた。
中学二年生になってクラスが変わった時のことだった。少年は同級の三人組にいじめられるようになった。中学一年生の時にも彼らの悪評は耳にしていたが、クラス替えに伴っていじめの対象を少年に定めたらしかった。
それからの一学期は、少年にとって地獄のような日々が続いた。根も葉もない陰口を広められ、クラスメイトからは腫れ物に触れるような扱いを受けた。誰も見ていない間に、暴力を振るわれることも多々あった。教師は気づいていたのかいないのか、我関せずを貫いた。
時には金銭を要求されることもあり、じくりと痛む良心を踏みつけにして父の財布から千円札を数枚取り出さなければならなかった。少年はひたすらに心を殺して、学校に通い続けた。
そんな日々に、転機が訪れた。それは二学期に差し掛かる頃であった。優弥くんが転校してきたのだ。彼は転校してきた翌日、少年に「友達にならない?」と突然声をかけてきた。少年は驚きつつも、孤独の日々に終わりを告げることができるという期待に満ちて「うん、いいよ」と即答した。
疑うことを知らない、というよりは希望を持ちたかった気持ちが強い。
そんな少年の気持ちを知ってか知らずか、優弥くんは少年にいつも優しく接していたし、そしていい友達だった
彼と友達になって一緒に行動するようになってから、少しいじめられる回数が減った。というのも、優弥くんは欠席や早退をすることが多かったために、彼がいない隙を見計らって例の三人組は変わらず少年に罵詈雑言を浴びせたり、殴ったりしたのだ。それは、優弥くんが現れる前よりもよっぽど強い打撃だった。それでも、優弥くんという心強い友達がいる。その事実が少年を支えていた。
そんなある日、少年は優弥くんを家に招待した。自分の部屋へと案内し、ジュースを持って部屋に戻ると、優弥くんは少年のビデオカメラを手に取り眺めていた。
「これ、少しの間借してくれない?」
優弥くんはビデオカメラが物珍しかったのか、少年にそう問いかけた。唯一の友だちから、そして心の拠りどころである彼からの頼みだ。少年は喜んで承諾し、使い方を説明した。
「電源ボタンはここで……」
優弥くんは少年の説明をふむふむと聞くと、早速それを使いたがった。彼は録画ボタンを押すと少年の姿を収めた。
「僕を撮るの?」
「そうだよ」
「僕も優弥くんのことを撮りたいな」
「うん」
「じゃあ庭で撮ろうよ」
そんな会話をして、ビデオカメラを持ったまま、庭に出た。少年の家の庭にバスケットボールのゴールがあることが分かると、優弥くんは「やろうよ」と誘った。それから二人は他愛ない会話をしながら、日が暮れるまでバスケットボールやキャッチボールをして過ごした。今まで、こんな風に遊ぶ相手もいなかった少年にとって、とても楽しいことだった。
少年は優弥くんと楽しくその日を過ごしたのをよく覚えている。
あの時は楽しかったのに。
やっぱり、死ぬなんて、しちゃいけないことだったんだ。
思い返せば思い返すほど、少年の頭はそればかりが浮かぶのだった。
座り込んでいる優弥くんを見つめながら、少年は彼との思い出を反芻する。しばらくそうして彼を眺めていると、堤防と河川敷をつなぐ人工的に作られた坂を降りていく二つの影が見えた。それは、少年の両親だった。少年のお父さんは、花束を持って優弥くんに近づいて行き、草むらに隠れた彼を見つけ出した。「優弥くん?」そう声をかけるのが、聞こえた。
「えっ?何でお父さんは優弥くんのことを知ってるの?」
少年は、学校生活のことを家族には伝えていなかった。語るには辛すぎる日々であったし、自分のした後ろ暗い行いがバレてしまうのではないかという恐れもあった。なのに何故、お父さんが彼のことを知っているのであろう。その答えを乞うように少年は案内人を見つめた。
「優弥くんのお母さんは重い病気で、あなたのお父さんが勤めている病院に入院していて、そこで二人は知り合っている」と本を見ながら教えてくれた。
「あなたのお父さんが優弥くんに『友達になってやってくれないか?』とお願いしていたのよ」
少年は戸惑いを隠せなかった。あの時、友だちになろうと声をかけてくれたのは、お父さんがそうするように仕向けていたからだったなんて……。
あの日、少年は朝からくだんの三人組からいじめを受けていた。優弥くんは、その日も遅刻してきたからだった。早く優弥くんが来ないかな、そう待ち望んでいたのに。
遅刻してきた優弥くんは、無言で少年の横を通り過ぎていった。
それだけ、余裕がなかったのだろう。
生きている時は全く気付きもしなかったが。
いじめをしている三人組はそれを見逃さなかった。
その後、先生に呼び出された優弥くんは早退していった。
この時、少しでも変に思えば、もしかしたら生きていたかもしれない。
でも、この時は知る術がなかった。だから、どうしようもない部分もあったのだ。
そして少年は学校の帰り道で、またいじめられる。
どうして僕ばかり。なんで。そんな絶望感を覚え、少年はとぼとぼと歩いていた。
家へと帰る途中だった。悪かったのは、その道のせいだったのか、少年が無意識の内にそういう道を選んでいたのか。
少年の目の前にはいつも通っている鉄橋があった。
いつもなら、何も考えずにただ通っているだけだった。
でも、その時ばかりは違ったのだ。
その鉄橋をふと見た時、少年の頭の中に警鐘が鳴った。
この鉄橋から飛び降りれば楽になるぞ。そんな悪魔のささやきと、苦しくてもなんでも、生きていかなければという至極当然の気持ちが少年の心にあった。
どうしたらいいのかわからない。そう思いながらも、気づけば気持ちは、死の方を意識し始めていた。
これからも苦痛を味わい続けるのなら、死んだ方がマシだ。
……そう、思ってしまった。
少年は鉄橋から川を覗き見る。
何も映さない。暗い色が広がった川。そして、底が見えない。きっと、落ちたら助からないような川だろう。
川遊びも出来ないような川だ。助かることなんて、ほぼない。
これで、もう楽になれる。
その瞬間、少年は死を選んでいた。
少年はその日、鉄橋から川へと飛び降りた。
「あなたはあの時、優弥くんの事どう思ったの?」案内人が少年にそう聞いた。
少年は少し俯きながら、ぼそりと小さな声で答える。
「見捨てられたと思った」
そうだ。もし、見捨てられたのではないと知っていれば、今頃こんな風に、死んでいない。 きっと生きて、今も笑っていたかもしれない。
どうして、どうしてそんな簡単なことに気づかなかったのだろう。
なんで、優弥くんの都合や考えていることを、全く考えられなかったんだろう。
後悔先に立たずと言うけれど、本当だなと少年は激しい後悔の念に襲われた。
心に余裕さえあれば、そうすれば、違う結果になっていただろうに……。
「優弥くん、あなたのお葬式の後、泣いて謝っていたわよ。あの時『がんばれ』って言えなかったって」
その言葉を聞いた少年の視界は急に鮮明になった。
声を上げて泣きたい気持ちだった。優弥くんに謝って、また隣に並んで生きたい。でも、もうそれも叶わない。
「優弥くん、ごめん。.....僕は,なんて弱いんだ」
少年は涙は出ないけど、それでも泣いた。
がんばれなかった。それが、こんなにも悲しいなんて。
死んでから、こんなに泣くことになるなんて思いもしなかった。
でも、それはもう現実世界に反映されることはない。
それに、今更泣いたところでもう手遅れということは少年が誰よりもよくわかっていた。
「なんだかつらそうね」と案内人が少年の背中に手で触れると、少年の目から涙がどんどんと溢れ出していく。
視界は滲み、歪んでいく。
落ちていく涙は、地上に落ちる寸前で消えてしまう。
そこにいるということの証拠など残りはしない。
これが、この世を去った者の当たり前の光景なんだと思うと、本当に後悔しかなかった。
ああ、もっと生きていればよかったと、少年は心底思う。
それでも決して目を逸らさなかった。潤んだ目を擦りながら優弥くんをまじまじと見つめる。すると、彼のまわりに三つ蠢く影があった。例のいじめの三人組だった。彼らはゆっくりと立ち上がり、坂を登ってゆく。その顔はところどころ腫れていたり、青くなっていた。
--優弥君は、戦ったんだ。
彼らは少年の両親の隣を無言で通り過ぎていった。お父さんの花束を持つ手が、怒りに震えているのが遠くからでもよく見えた。
立ち上がった優弥くんも、よく見るとボロボロだ。優弥くんは口元についた血の跡を拭うと、少年の両親の方へ歩いてゆく。
「これ、借りてたビデオカメラです」
優弥くんは、少年が教えた通りに電源ボタンを押し、二人で遊んだ日の録画を再生して見せた。両親が、泣いている。少年と優弥くんが二人、本当に楽しそうに遊んでいるのを見て、泣いている。
「入院している母にも、見せたかったんです」
優弥くんがビデオカメラで少年との記録を残した理由が、やっと理解できた。優弥くんにも、優弥くんなりの地獄があったのかもしれない。少年は、そう思った。
ぷつり、と映像が切れて画面が暗くなった後、それでも優弥くんはビデオカメラの電源を落とさなかった。
『おい優弥、アイツはお前のせいで死んだんだ。アイツ、金も持ってくるし捌け口にもなるし、お前さえいなけりゃすべて完璧だったのによ。台無しにしてくれやがって!』
『人のせいにするなよ!お前らがいじめをしていたのを、正当化するなよ!』
『うるせえ!』
流れてきた音声は、優弥くんと三人組が殴り合いの喧嘩をする直前のものだったようだ。優弥くんは、少年の両親にそれを差し出した。
「これは、あいつらがいじめをしていた証拠になります」
両親は、優弥くんの手からビデオカメラを受け取り「息子のために戦ってくれてありがとう」と涙した。
「そろそろ行きましょうか」
案内人が、もう充分だろうと少年に語りかける。知らないままでなくて、よかった。優弥くんのことを恨まずにいられて、よかった。
少年はこくりと頷いて、再び案内人から差し出された手をとる。今度はきっと、彼女のいう地獄へ連れて行かれるのだ。けれど決して、少年は絶望しない。優弥くんがいる。少年の死の理由を理解してくれる人がいる。悲しみ悼んでくれる人がいる。
最後にもう一度だけ、優弥くんと両親の顔をじっくりと見た。そして少年と案内人は夜空の黒い世界に消えていく
「ねえ、あれ……」
少年のお母さんは、少年のお父さんの花束を持つ袖をツンツンと引っ張った。それに気づいた少年のお父さんは隣の妻である少年のお母さんを見ると夜空を見ていた。同じように夜空を見た。二人に気付いた優弥くんも、夜空を見る。
三人は、美しい夜空へ消えて行く少年の姿を、ずっとずっと見ていた。