日守姉妹2
区役所の女性が帰って行った後に残されたのは当然だけど私と妹だけだった。
以前は三人居た空間が今は一人減ってしまっているので少し広い気がする。
家の中を静寂が支配している。
聞こえるのは旧式の冷蔵庫の稼働音くらい。
いつもなら気にならないその静けさが今はとても不安を煽ってきた。
それは帰り際に見せた女性の引き攣った顔のせいかもしれない。
「お姉ちゃん、あの女の人、苦しそうだったね」
「そうね、きっと体調が悪かったんだと思う」
日も落ちかけてしまっているがまだ夕飯の準備を全くしていない。
普段なら私が作るのだけど、連日の疲れからか作る気になどならなかった。
母が死んだから当然だと自分を納得させはするけど、今まで続けていたルーティンがこうも容易く崩れてしまう事に少し驚いていた。
「お腹空いちゃったね……ごめんね、お姉ちゃんが作らなきゃいけないのに」
「そんな事ないよ! お姉ちゃん色々やってくれてたんだから、ご飯作れなくたって仕方ないよ!」
小学三年生の妹である円が健気にも私を励ましてくれる。
この子は自分が母に憎まれている事を理解して、それでも母に心を開いて欲しいのかいつも明るく振る舞っていた。
それは母が死んだ後も変わらない。
以前よりも明らかに沈んでしまっている私を幼い妹が気にかけているのがわかる。
「ごめんね……私がもっとしっかりしていたら、円も安心させられるのに……」
「お姉ちゃんはいつも私を守ってくれてるよ! お母さんが……その……暴れてた時だって……いつも守ってくれてた!」
母の癇癪の対象になることは私よりも幼い妹である円になることが格段に多かった。
私はそんな円を母から庇うことは当然だと思っていたし、何よりも円の事が大切だった。
何故なら私の中で家族は既にこの娘だけだから。
豹変してしまった母は私の中では既に家族では無かったからだ。
「そうだね……私もね、円が大切……とっても大切だよ、大好きだよ」
「うん……私もお姉ちゃんが大好き」
「ありがとう。そうだね、暗い顔しててもしかたないよね」
恐らくだけど円も母が死んだことに対してはそこまで悲しく思っているわけではないと思う。
私よりも更に優しかった母の記憶が少ないのだから。
それでも色々な事柄が母が死んでしまった日を境に変わってしまった事は理解しているはずだ。
この子は賢いから、それが自分たちにとって良くない変化だという事もわかっているに違いない。
それでも明るい態度を崩したりせずに、頼りない姉を励ましている。
情けない……私じゃ妹との生活を守れないかもしれないと思うと涙が溢れてくる。
これから先、恐らく私と妹は離れ離れになる可能性が高い。
それを何とか回避できるように私がしっかりしなければならないんだ。
「よし! 今日は外で食べようか。これからご飯作るのも大変だし、たまに贅沢したって良いよね」
「外食!? やったぁ! 私ハンバーグが良いな」
「近くのファミリーレストランにしようか、外食なんて久しぶりでお姉ちゃんも楽しみになってきちゃった」
円に外出用の外套を着せてあげた後に自身も外へ出る準備をする。
日が落ちるとガクンと気温も下がりまだまだ春が遠い事を実感する。
連日のショッキングな出来事で疲れも溜まっているが、ここで私まで倒れる訳にはいかない。
風邪を引くなんてもっての他だ。
「お姉ちゃん! 早く早く! 私、お腹空いちゃったよ!」
「ファミレスは逃げないよ。落ち着いて落ち着いて」
ご飯を食べて、シャワーを浴びて、今日は何も考えずに眠ろう。
妹と一緒にベッドに入って深く深く眠るんだ。
先のことは考えるのは明日から。
そう考えて逸る妹を落ち着かせながら玄関のドアを開ける。
その時に私達は玄関だけではなく何か違う扉を開いてしまったのだった。
◇
「ドコヘイクノカシラ?」
声が聞こえた。
聞こえるはずの無い声だった。
その声はもう二度と聞くことできないはずの母の声だった。
そしてそれが私達の部屋の中から聞こえてきたのだ。
それは当然おかしい話だ。
家の中には私と妹だけ。
母がどうとかそういう話ではない。
家の中から私達以外の声がしてくるのがおかしいのだ。
「ソレハワタシノヨ、カエシナサイ」
振り向いてはいけないとわかっていた。
後ろを見てしまえば決定的になってしまうと。
声がする方向から冷たい冷気が流れ込んでくる。
体中の細胞が何かを警告しているのがわかる。
「………………っお母さん……?」
妹の手を強く握る。
後ろを振り向いたとして、そこにあるのは住み慣れた家の廊下のはずだ。
しかし、今はここが住み慣れた家などと感じることはできない得体の知れない感覚が体を支配していた。
それは妹も同じようで握った手が震えているのがわかる。
本当は確認なんてしたくはない、今すぐに外に出て、扉を締めて夕ご飯を食べに行きたかった。
後ろなんて振り向きたくなかった。
でも当然だけど確認をしないわけにはいかなかった。
母の声を聞いたなんていうのが私の幻聴である事を願いながらゆっくりと私は後ろを振り返る。
「ひっっ!」
短く悲鳴を上げてしまった。
そこに母がいたのであればまだマシだったと思えてしまう。
私達の家の中に居たのは異形だった。
大柄の体は天井まで突きそうなくらい高く、その体はとにかく白かった。
病的までの白、少なくとも人間の肌の色ではない。
白い巨体は醜く肥大しており、たるんだ肉が動くたびに揺れている。
頭部には人間の女性であるとかろうじてわかる顔がついていた。
そして、そのような異形が発する声はどう聞いても私が知る母の声なのだ。
「……はっ! はっ……は……走るよ!」
全身がここに居てはいけないと叫んでいた。
この場から逃げなければと。
白い化物を見てしまい恐怖に固まってしまった妹の手を無理矢理引き玄関のドアから外に出る。
訳がわからない。
今見たものが果たして現実なのかわからない。
現実であるはずが無いと思いたいが、これが現実であることを握った妹の手が教えてくる。
自身の部屋の扉を閉めることも忘れてエレベーターへと走る。
少しでもあの化物から遠くへ。
「はぁ……はぁ……早く来て!早く!」
エレベーターの前まで来た私は下のボタンを何度も押す。
今にも玄関の扉からあの白い化物がこちらへ向かってくるかもしれない。
そう考えると気が狂いそうだった。
「何?なんなの?どういうことなの?」
何なんだあれは?
白い化け物?
母の声がする?
玄関のドアを開いた瞬間に全く知らない場所へ放り込まれたような感覚があった。
いつも通りに、日常的に、数え切れない程開けてきたドア。
それがあの時だけは別世界への扉だったのだろうか?
誰かこれが夢だと言ってほしかった。
だが、繋いだ妹の手と体の奥で鳴り止まない生存本能という名の警告がこれが現実だと教えてくれていた。
「大丈夫、大丈夫だからね。怖くないから」
妹へとそう言いながらエレベーターのパネルを注視する。
このマンションは五階建てで私達の部屋は四階だ。
そこまでエレベーターが時間がかかると思ったことはない。
しかし、今は全ての時間の流れが遅く感じる。
後ろの廊下を見てもあの白い化物が外に出てくる様子はない。
その事に少しだけ安堵しながら未だに早鐘を打つ心臓を鎮めようと深呼吸をする。
エレベーターが来たら、飛び乗ってこのマンションから少しでも離れる。
その後の事は今は考えられなかった。
少しでもここから遠くへ離れなければならないと。
「お願いだから……早く来てよ……」
あと少し。
あと少しでエレベーターが四階につく。
その瞬間に妹が私の手を強く引いて階段の方へと引いた。
「お姉ちゃん! 駄目! エレベーターは駄目!」
そう言って円が私の手を強く引く。
小さな体のどこにそんな力があるというのかわからないほどの力だ。
抵抗する私の体を階段の方へと引きずっていく。
「ちょっと円! エレベーターもう来るよ! あの化物見たでしょ! 早く逃げないと!」
「わかってる! わかってるけどエレベーターは駄目! お姉ちゃんお願いだからっ!」
円が泣きそうな顔で私に訴えかける。
この子がこんなに必死になって何かを訴えるなんていうのは何時以来だろうか。
母に暴力を振るわれている時でも気丈に我慢していたような子だ。
その円の気迫に負けてしまったのか私は小さな妹の力に抵抗できずに階段へと足を向けた。
背中ではエレベーターが四階についたようで到着音がなっていた。
あれに乗ればすぐに逃げ出せたはずだというのに何故円は……そう思い私は後ろに目を向けた。
「ワタシノォ……ドコイクノォ……」
そこにはエレベーターから出てくる白い化物が居た。
部屋から出た様子などなかったあの化物が。
どういう事か理解ができなかった。
頭がどうにかなってしまったのか?
私にはとにかく足を動かして階段を降りていくしかできることはなかった。
「お姉ちゃん……よく見て。ここおかしいよ」
「おかしいってそんなの言われなくても……」
そう言いながら冷静に周囲を見渡した私は顔が引き攣っていく。
このマンションは五階建て、私達の部屋は四階。
だが、私達は今何階分の階段を駆け降りたのだ?
あの化物から逃れるために、勢いよく降りた階数は何階分だ?
確実に五階以上の階数を下った事を私は認識してしまった。
「駄目……お姉ちゃん止まって……この下に居る……と思う。あの白いの……」
「円、あの化物の場所がわかるの?!」
「ううん、あれの場所がわかるわけじゃないの……でも、あっちに行っちゃ駄目っていうのはわかる……気がする」
とにかく嫌な予感がするのだと円は言う。
これ以上階段を降りれば何が起こるかはわからないが自分に危険が降り注ぐと確信が持てるのだと。
「なんでわかるのか、わからない……でも、きっとこの予感は正解だと思う」
円はそう言いながらマンションの一室のドアに手をかけて開く。
そこは鍵がかかっておらず中に入ることができた。
住人がいようがいまいが鍵がかかってない部屋なんて不自然極まりない。
そう思いはするがそれを遥かに上回る異常が起きている今はそんな事を考えても仕方がなかった。
「お姉ちゃん……ここなら少し安心……だと思う」
「信じるわ……さっきも円のおかげで助かったわけだし、一度隠れて……隠れて……」
震える妹の肩を抱いて蹲る。
隠れた後にどうするか、そんな事は決まっていなかった。
入った部屋の窓から外を見る。
見えるのは夕暮れでも、日が完全に沈んでしまった夜の闇でもなく白い霧に覆われた世界だった。