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悦郎の夏 その2 フェスの日 午前

長くなってきたので一旦前半だけで投稿します。

 

 その日の朝は、いつもより早く訪れた。


「ふわ〜っ。まだ眠いけど……起きなきゃ、だな」


 枕元でピピピピと鳴り続けるスマホの画面をタップし、アラームを止める。

 表示されている時間はいつもより早い。

 夏休みだというのになんで早起きしなけりゃいけないんだと思いつつも、そりゃ用事があるからだろという自己ツッコミが自動的に入った。


「咲はもう起きてるな」


 カーテンを開け、向かいの家の一室を確認する。

 そこは咲の部屋。

 予想通りそこはもう無人になっていて、おそらく今は階下で朝の支度をしてくれているのだろうと思われる。


 まるで学校に行くときのようなルーティンではあるが、今日は別に学校に行くのではない。

 オカルト研究部の予定が入っているわけでもないし、どこかの部活の助っ人をするわけでもない。

 もちろん、補習の方は半月以上前に終わっている。


「とりあえず着替えて下に降りるか」


 寝汗を吸ってぐっしょりと重くなったTシャツを脱ぎ、ついでにパンツもはき替える。


「うへー、さっぱりするー」


 もうそうじゃなかった夜が思い出せないくらい、熱帯夜が続いている。

 もちろん真夏なんだから当たり前なんだが、それでも暑いものは暑いんだから、ぼやきたくなるのは仕方がない。

 ならガッツリエアコンを効かせたまま寝ればいいような気もするが、それをすると一発で夏風邪を引くことは数年前に証明されている。

 それに、熱帯夜で寝苦しいのも実はそんなに嫌じゃなかったりする。

 いかにも夏らしいって感じがするからな。

 まあ夏休みで次の日寝坊してもそんなに困らないって理由もあるからかもしれないけど。


「こんこんこん、起きてる〜」


 ノックの口真似をして、咲が俺の起床を確認しにきた。


「おー、起きてるぞー」


 下に持っていく脱いだものをまとめながら、俺は廊下に続くドアへと近づいた。


「シャワー浴びるなら今のうちだよー。早めに済ませてねー」


 俺が廊下に出るより早く、トントントントンと階段を降りる音を響かせながら咲がリビングに戻っていく。


(今ならシャワー空いてるのか)


 考えてから、いつもよりまだ時間が早いということに気づく。


(なるほど。美沙さんたちはまだ朝のトレーニングが終わってないんだな)


 女子プロレスラーであるかーちゃんと、その団体の若手である姐さんたち。

 裏手にある寮の方にも浴室はあったが、それだけでは足りずに朝のトレーニングのあとにはうちのシャワーも満杯になる。

 学校がある季節には、ちょうど俺の朝の支度の時間とバッティングして早い者勝ちになったりしていたわけだが……。


「って、ぼーっとしてないでとっととすませないと。美沙さんトレーニング上がったら、容赦なく俺が入っててもシャワー浴びに来ちまうぞ」


 洗濯カゴ行きのTシャツとパンツを片手に、ドアを開けて急ぎ足で階下へと向かう。

 部屋から出たとたんに襲いかかってきたムッとした熱気が、今日一日の暑さを俺に覚悟させているように感じられた。


 *    *    *


「ごちそうさまでした」


 俺が短時間の朝のシャワーを終え、頭をバスタオルで拭きながらリビングに入ると、そこには緑青の姿があった。


「来てたのか緑青」

「咲に頼まれてたものあったから、ついでに来た」

「そうか」


 今日の予定は俺と咲、そして緑青も共通のものだ。

 砂川にも声を掛けたが、あいつは今ニューヨークに行っているらしい。

 詳しい話を聞いたことはないが、なんでも父親が向こうで働いているとか。


「はい、オレンジジュース。リクエストされたから、今日の朝食はサンドイッチにしたよ」

「おう、サンキュ」


 テーブルにつき、咲の並べてくれたお皿に向かって手を合わせて一礼する。


「いただきます」


 朝ごはんを食べ始めた俺をよそに、緑青が自分の使った皿をシンクへ運ぶ。

 どうやら緑青のメニューは、俺とは違うものだったようだ。


「いただきます」


 今日持っていく弁当の準備が終わったのか、俺の向かいに咲も座って朝ごはんを食べ始めた。

 咲のメニューもサンドイッチ。

 たぶん、俺の分を作ったときの材料で自分のものも用意したのだろう。


「時間、まだ大丈夫だよな?」


 食べながら咲に尋ねる。


「うん。ちゃんと時間通りに起きてくれたから、まだ全然へーきだよ」

「失敬な。俺は滅多に寝坊なんかしないぞ?」

「あはは。学校あるときはね。最近はお昼くらいまで寝てること多かったじゃない」

「うっ……そ、それは……熱帯夜のせいだ」

「まあねー。もう一週間以上続いてるもんね」


 記録的猛暑……とまではいかないが、今年の夏はなかなかに厳しい。

 たまに寮の方に顔を出すとむくつけき姐さんたちが暑さでぐったりしている様子をよく見かけるくらいだ。

 どこか動物園っぽい雰囲気を感じたりもしたが、それは姐さんたちにはナイショだ。


「今日回るタイムテーブル、作ってきた」


 緑青が自作のリーフレットを俺と咲に示してくる。

 フルカラーで印刷されたそれは、まるでちゃんとした業者に発注したもののようだ。

 たぶんはじめてそれに接した人は驚くだろう。

 だが、俺と咲は違う。

 緑青の細かい性格を知っていれば、こういうこともあるだろうなと納得できる。


「麗美のとこと若竹のとこ、時間かぶったりしてなかったか?」


 モグモグとサンドイッチを咀嚼しながら、緑青の作ってくれたリーフレットに目を通す。


「大丈夫。ステージとステージの移動時間まで全部計算したから」


 緻密に計算された緑青のタイムテーブルには、無駄な時間は一切ない。

 計画としては完璧なのだが、そこには致命的な弱点がある。


「ステージ間の移動はいいんだが、動画で去年の様子とか見た感じだと、ホールの出入りとかで結構並ぶみたいだぞ? そこ大丈夫か」

「え……」


 俺は片手でスマホを操作して、去年の会場の動画を緑青に見せる。


「うわ……こんなに人いっぱい」


 無言で俺におしぼりを差し出す咲。

 そうだな。食べてる途中にスマホは行儀が悪かったな。


「まあ出演者によって人の集まり方とか変わるらしいけど、場合によっては入場制限とかかかることもあるらしいからな。そのへんは現地に行ってから柔軟に対処するしかないだろ」

「そう、か。せっかく考えてきたけど……無駄になりそう」


 ちょっとしょんぼりしてリーフレットを取り下げようとする緑青の手から、それを回収する。


「いや。とはいえこれをなしにする必要はないだろ。基本はこのとおりで。途中無理そうなスケジュールを飛ばしたりしながら、麗美のとこと若竹のとこだけ必須にして修正してきゃいいだろ」

「うん。それがいいよちーちゃん」


 ごちそうさまでしたと手を合わせてお辞儀をしながら、咲が自分の食器をまとめていく。

 俺は自分のものとそれを合わせて、キッチンのシンクへと運んだ。


「さてと。何を持っていかなきゃいけなかったんだっけ?」


 食器を洗い終わり、リビングに戻った俺はお弁当を包んでいる咲に軽く尋ねた。


「えっとね、香染さんが作ってくれたリストによると……」


 咲がポケットから書き付けを取り出し、それを読み上げる。


「基本的に荷物は少なめ必要最小限に。チケット。飲み物。500ミリペットボトル一人二本。タオル、日焼け止め、汗ふきシート、可能なら着替えのTシャツ、だって」

「必要最小限なのに500ミリペットボトル二本も要求するのか?」

「そのくらい過酷な場所なのかも」

「まあ、そうか。この天気だしな」


 俺は窓の外を見上げた。

 まだ午前の早い時間だが、外はもう30℃を超えている。

 この分だと、昼過ぎにはどうなるか……。


「とりあえずわかった。咲と緑青のスペアの飲み物は俺が持つ。っていうか、現地で買ったりできないのか?」

「どうだろ。できそうな気もするけど、高かったりしそう」

「ちょっと離れればコンビニもある。その分歩くけど」

「ま、全部は現地に着いてから、だな」

「そうだね」


 そうして俺たちははじめてのイベント……アイドルのフェス現場というものに行くための準備を小一時間ほどですませ、かーちゃんたちに見送られながら出発した。


「ふー、あちー。駅まで歩くだけで干からびそうだ」


 玄関を出て数分歩いただけで汗が滝のように噴き出してくる。


「はい、タオル」

「さんきゅ」


 香染のメモにあったタオルが、早速役に立つ場面が訪れた。

 俺は汗を拭きながら、歩くペースを合わせて咲の日傘の下に入れてもらう。


「やっぱ帽子かぶってくればよかったな。頭がめちゃくちゃ暑いわ」

「んもー、だから言ったのに」

「悦郎、いいアイデアがある」

「ん?」


 緑青が俺の持っていたタオルを奪い取った。


「これを頭に巻く。ナイスアイデア」

「あー、たしかに涼しいわ」

「でも、あんまり一緒に歩きたくないかも」


 苦笑を浮かべた咲は、ちょっとだけペースを早めて俺から離れようとする。


「あのなあ……」

「あははっ」


 いつものようにふざけながら、いつもの駅へと向かう俺と咲と緑青。

 制服でいつも歩いている道を、今日は私服で歩いている。

 たったそれだけの違いなのに、なぜだかものすごく違っているように感じられた。


 もっとも、電車に乗って向かう先自体もまるで違うのだが。


 *    *    *


「着いたー」

「ふー、乗り換えわかりにくかったね」

「そうだな」


 いつも通学に使っている地元の駅から電車に乗り、いつもとは反対方向へ。

 そこから大きめのターミナル駅で乗り換えて、隣の県へ。

 そこからさらに30分ほど電車を乗り継いで、もう一度乗り換えてさらに20分。

 俺と咲と緑青は、香染率いるアイドル研究部の出演する学生アイドルフェスの会場である醍場(地名)へと降り立った。

 ちなみに若竹たちの出演するスーパーアイドルフェスの会場は、2つとなりのトイコムセンター駅が最寄り駅だ。


「あんまり人降りなかったね」


 ホームから改札階へと階段を降りて、一つしかない出口へと向かう。


「みんな目的地はこっちじゃなくて、2つ先なんだろ」

「そっか」


 とはいえ、それでもまったく人がいないわけではない。

 地元の駅のラッシュ時の8割くらい。

 3つある自動改札がひっきりなしに人を吐き出し続けるくらいの人出はあった。


「むこうはすごい混んでるのかもね」

「そうだな。ステージの一番前は競争らしいからな」

「ふーん」


 このときの俺たちは、それがどれくらい困難なことかはわかっていなかった。

 それはそうだろう。

 俺たちが見たことのあるアイドルさんのステージなんて、若竹たちに招待されていったあの汁谷のライブハウスでの光景くらいしかなかったのだから。

 そんな俺たちからすると……。


「うわー、思ったより人いっぱいる」

「前から後ろまでびっちりじゃん」


 実際の収容人数でいえばそれほどでもないらしい香染や麗美たちの出場する学生アイドルフェスのステージですら、すごいものに見えてしまっていた。


「後ろの方でいいかな」

「そうだな。前の方は濃い人たちの主戦場だろうし」

「見えない」


 簡易的に作られたゲートのような場所でチケットを確認してもらい、会場に入った俺たちは、客席の後ろの方……ステージ全体が見渡せるような位置で麗美たちの出番を待つことにした。

 タイムテーブルを確認すると、あと3組くらいあとにうちの学校のアイドル研究部が登場するらしい。


「悦郎、荷物」

「おう」


 完全に荷物持ちと化していた俺は、緑青に言われて背負っていたスリングバッグを前側にクルンと移動させた。

 そしてジッパーを開く。


「ほれ」


 そのまま胸を突き出し、緑青に中を探らせる。

 家を出たときにはそこにはみんなの荷物と弁当以外に、香染のアドバイスどおりに500ミリペットボトルが6本入っていたが、すでにその中の1本は空になっていた。

 そして、2本目もすでに半分程度が飲み干されている。


「なんだ? 何を探してるんだ?」

「あった。これがないと私にはステージが見えない」


 そう言って緑青が取り出したのは、コンパクトながら高性能そうな双眼鏡だった。


「え、そういうのありなのか?」

「ありなんじゃない? 昔で言えば、オペラグラスとかあったわけだし」

「まあ、そうか」

「そもそもこれ、売り場でライブ用ってジャンル分けされてた」

「なるほど……」


 こういうステージとかあんまり見ないから知らなかったけど、考えてみれば当然な気がする。

 ここならまだギリギリ俺の視力なら問題ないけど、もっと広いホールとか、それこそなんとかドームとかいう場所になったらステージ上の人なんて豆粒くらいにしか見えないもんな。

 若竹の方のステージのときは、ちょっと俺も借りてみよう。


「あ、次の人たちはじまるみたい」


 俺たちが会場に入ったとき、ちょうど入れ替えだったのか前のグループがステージからはけていくところだった。

 そしてそこから数分間のインターバルがあり、なにやら会場全体を煽るような曲が大音量で流れてきた。


「「「ウリャオイ! ウリャオイ!」」」


 客席前方の密集した集団から、威勢のいいダミ声が聞こえてくる。


「あ、学生アイドルでもこういうのやるんだね」

「まあ、応援してる方からしたら学生なのかプロなのかは関係ないだろうしな。しらんけど」

「ふふっ。香染さんたちの出番のときやってみる?」

「いや、やめとこう。こういうのも作法とかあるだろうしな」

「現代の歌舞伎」

「ん?」

「ほら、なんとか屋ーとか掛け声かけるじゃない。歌舞伎も」

「ああ。玉屋ーとかか」

「それはちょっと違う」

「そうか?」


 そんな感じで俺たちは後ろの方からステージと客席の盛り上がりを眺めていた。

 あとで聞いた話では、こういうのを後方彼氏面と言うらしい。


「すごいね。学生アイドルでもオリジナル曲とかちゃんとあるんだ」

「さっきは俺の聞いたことある曲もやってたぞ」

「あれはモーフィング娘さんの曲……だったかな。私もあんまり詳しくないけど」


 俺と咲、二人の視線が緑青へと注がれる。

 わからないときは緑青。ある意味、これはお約束だ。


「咲が正解。最初にやったのは、モフィ娘のカバー。で、今やってるのは道灌山47の曲」

「ふーん」


 言われてみればなんとなくわかる。

 俺でも聞き覚えのある曲に合わせて、ステージの上ではカラフルな衣装を着た女子たちが……女子たち……。


「あれ?」

「ん。どうかした?」

「学生アイドルって、女子だけじゃないんだな」

「そりゃそうでしょ。実際の芸能界にだって男性はいるんだから、男子のグループだって――」

「違う違う。ほれ、今ステージいる右から三番目の」

「え?」


 俺の指差す方向を、咲が目をキュッと細めながらじっと見る。


「なに? あの髪の長い人がどうかした?」

「いや、だから……」


 俺としてはかなりの確信があったのだけど、咲に伝わらなかったことでその気持ちが揺らいできてしまった。

 もしかしたら、勘違いかもしれない。

 それを払拭するために、再度俺は緑青を見る。


「緑青。ちょっとそれ貸してくれ」

「ん」


 見た目より若干重みのあった双眼鏡を緑青から受け取り、それを通してステージの件のメンバーを見た。

 そして俺は確信する。


「やっぱりそうだ。あの青い衣装の人、男だよ」

「えーっ!!!」

「ほれ、自分で確認してみろ」


 緑青の双眼鏡を、俺は咲に渡す。

 咲はそれを顔に押し付け、食い入るようにステージを見た。


「まさかそんな。だってあんなにかわいい衣装でかわいい振り付けを……」

「……」


 咲の言葉が出なくなる。

 そして名前の知らないグループの3曲め……道灌山47さんの『回り道は帰りたくなる』がアウトロを迎える。


「う、うん……そうだね。あの青い人、男の人だ」


 ゆっくりと咲が双眼鏡から目を離し、それを緑青に返した。


「すごいな。この距離だとほとんどわからないよ」


 ステージ上から手を振っている青い人。

 前方のオタク集団は、性別にこだわらず彼にも野太い声援を送っている。


「しかも人気もあるみたいだね」

「まあ……特徴はないよりあった方がいいだろうしな」


 そしてついに、我が校のアイドル研究部の出番が来る。


「次だね」

「ああ」


 胸のあたりでキュッと手を握りしめ、自分がステージにあがるわけでもないのになぜか緊張している咲。

 緑青はいつもの調子で、のんびりとした余裕のある感じで観客席全体を眺めていた。


「ほう。そうなるのか」

「え?」


 緑青が感心したような声を上げた。

 俺はなんのことか確かめようと、緑青と同じ方向に目を向けてみた。

 すると、その理由がすぐにわかった。

 さっきまで盛り上がっていた観客席前方の集団が、別の集団ときれいに入れ替わっていた。

 そして揃いのTシャツを来たその集団(前のグループの精鋭オタさんたち)は、そのまま会場の外へ出ていく。

 おそらく、自分の推しグループの特典会に行くのだろう。

 確か、会場外のテントでそんなようなことをやっていたはずだ。


「なかなか合理的」

「ってことはつまり、あそこの集団はうちの学校のアイドル部のファンってことか?」

「そうだろう。たぶん」


 目を凝らしてよく見てみると、たしかに校内で見かけたことのある顔がチラホラいるような気がした。

 ただし、あくまでも気がしただけで、雰囲気の似ている別人の可能性も高い。

 だから、あの中心付近で円陣を組んでいる大柄な男は近藤ではないはずだ。

 たぶん……。


「あ、はじまるよ」


 リズミカルな入場曲(?)が流れ出すと、前方真ん中あたりに陣取った集団を中心に、手拍子がはじまる。

 それに合わせて俺や咲もパンパンと手を叩いた。

 ちなみに緑青は、両手がふさがっているために頭で軽くリズムをとる程度だ。


「アイドリル、行くよ!」


 まだ姿を現さない香染の声がステージ裏から響いてきた。

 そしてそれと同時に、9人のメンバーが駆け出してくる。


「香染のグループって、9人組だったのか」

「そうみたいだね」


 香染に七瀬、麗美。

 あと一人見たことのある顔もいたが、名前は覚えていない。たしか、一年生だったはずだ。

 残りの6人は、たぶん会ったことすらない。

 その9人が、ステージ上で前4後ろ5の二列になる。

 客席の拍手がピタリと止まったのと、9人がポーズを決めて動きを止めたのは、ほぼ同じタイミングだった。


「すごいな」


 自然と、俺の声も小声になる。

 時間としてはほんの数秒だったが、入場曲(?)が終わって一曲目がはじまるまでの間、誰一人として声を出さない静寂の時間が訪れた。


「一曲目、『最前線』!」


 いつもより引き締まった表情の香染の煽りに続いて、一曲目のイントロが流れる。


「うおーっ!」

「やったー!」


 なんだかよくわからないが、大喜びで身体を揺らしはじめる前方中央集団。

 俺たちにわかにはわからないが、たぶんそれがお約束的な盛り上がり方なのだろう。


「香染さんたち、すごいね」

「そうだな」


 正直言って、俺はちょっと舐めていた。

 いくらこういうステージに出るとはいえ、所詮は部活動の延長だろうと。

 しかし、違っていた。

 香染たちの見せてくれたそれは、まさにエンターテインメントだった。

 二曲目、三曲目とまったく雰囲気の違う曲が次々と披露され、そして最後の曲……四曲目がはじまった。


「それでは次が最後の曲です。短い時間でしたが、楽しんでいただけたでしょうか?」

「うおーっ」


 香染からの問いかけに、言葉なのか叫びなのかよくわからない声でオタクさんたちが応える。

 ちゃんと答えたりはしないのかな、などと思っている俺の思考を読んだかのように、緑青が解説してきた。


「人は高まりすぎると、語彙力がなくなる。あれはそのいい例」

「なるほど」


 言わんとしていることは、なんとなくわかった。

 ということはつまりあれは、言葉として捉えるよりもやはり叫びと認識したほうが正しいのかもしれない。


「じゃあラストの曲行きます! 最後まで盛り上がってね! 『My Live,Your Life』!」

「うおーっ!」

「きたー!」


 熱狂の波が、会場を包み込む。

 その曲をはじめて聴く俺たちも、なんとなく身体でリズムをとり手拍子を打ってしまった。

 そして前方中央あたりでは、オタクさんたちが肩を組んで左右に移動している。


「ああいうのもありなんだな」

「なんだか、フォークダンスみたい」

「フォークダンス?」

「うん」


 よくわからない咲の感想を聞き流しながら、俺はステージ上の麗美を見ていた。

 急に香染にスカウトされた割には、麗美はしっかりと歌ったり踊ったりしていた。

 この曲ではないみたいだが、二曲目ではソロパートなんかもあったりした。


「麗美さんもすごいね。ずっと前からグループでやってたみたい」

「ダンスの経験あるんだっけ?」

「わかんない。聞いたことないけど、素人っぽい動きではないよね」

「だな」


 麗美は彼女の国ではそれなりのお金持ちのお嬢様だ。

 おそらくだけど、いろいろな習い事とかもしているのだろう。

 バレエとか社交ダンスとか、上流階級っぽいやつを子供のうちから仕込まれていたりするのかもしれない。

 考えてみれば、運動神経もけっこういいみたいだしな。


「うおー」

「最高だったー」

「ありがとー」


 最後の曲が終わり、拍手と歓声に見送られながら香染たちがステージ裏に退場していく。

 そのときほんの一瞬だったが、麗美がこっちに視線を送ってきたような気がした。

 俺はなんとなくそれに対して手を振り返したが、なぜかそれに反応したのは香染だった。


「お前じゃねーよ」

「あははっ」


 一部始終を見ていた咲が、面白そうに笑う。


「さて、それじゃあどうするかな」


 ステージ上ではまだまだ他の学生アイドルさんの演目が続くようだが、とりあえず俺たちが見ようと思っていた香染たちの出番は終わった。


「とりあえず外に出ようよ。またちょっと混んできたし」

「そうだな」


 出番があとになっていくにしたがってグループの人気が上がっていくのか、徐々に客席側にいる人の数が増えているように思えた。

 俺は咲と緑青を先に行かせ、忘れ物がないかを確認してから混雑しはじめた野外ステージのテントをあとにする。


「香染さんたち、ほんとにすごかったね」

「そうだな」

「歌、うまかった」

「ああ」


 口々に感想を言い合いながら、俺と咲、そして緑青は駅に向かって歩く。

 思っていた以上に、うちのアイドル研究部はちゃんとしていた。

 そして麗美は踊れていたし、香染の歌もうまかった。


「つーか、あいつ歌うときはあんな声になるんだな」

「あははっ。まあ、普段話す時とは発声が違うだろうしね」

「あと私は、檳榔樹さんが気になった」

「え?」

「一年生。アニメ声の子」

「あー」


 俺にはわからない名前の子について、咲と緑青が盛り上がる。

 どうやらそれは、しっとり目の曲調だった三曲目で、かなり長めのソロパートを担当した女の子のことのようだった。

 話の感じによると、俺は一度その子に会ったことがあるらしい。全然覚えてないけど。


 *    *    *


 ともあれ、こうして夏休みのある日の午前中はあっという間に過ぎ去った。

 午後には、若竹たちのステージがある。

 それまでにお昼を食べて、水分を補給しなければならない。

 俺と咲と緑青は、どこか座れる場所を求めて、駅前を右に左にとしばらくさまよった。


後半の午後パートに続く

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