血肉舞う夜風
異次元や異空間とも異なる神ベータの領域、そこは真に地獄であった。
悪いやつは、地獄に堕ちる━━悪いやつほど信用しないような言説だが、実際にそのような世界が、空間があるのだということを、生きたまま目の当たりにした人間は夜風が最初で最後だった。
理性も、本能すらもなく、ただ悪意の塊となり互いに殺し合う人間たちは、その見た目こそ生前の姿を保ってはいるが、最早人間と呼ぶに値しない獣ですらないなにかに思える。血と肉でできた、悪意そのもの。悪しき欲望と殺意のみで行動する、肉の塊。
降り立った夜風はその瞬間から、彼ら彼女らを斬り殺していった。片端から、頭も躰も腕も脚も関係なく、刀で斬った。超物質となった霞屍の刀身だけが、純粋な霊体とも異なる者たちを斬ることができる。
生身の躰ではないはずの人々からは、それでも血と肉が飛び散って、臭いすら感じられた。生臭い悪臭が、どこまでも密度を高め続ける。高次元物質と化した霞屍は刃が欠けることも、血液や脂で切れ味が鈍ることもなかったが、ただ夜風の躰だけが真っ赤に染まり、血と肉と脂にまみれてゆく。だが、それを拭き取ることもせずに。何千、何万、何億、何十億という膨大な数の人々を斬り、その魂を解放しなくてはいけなかった。
ベータの領域。
悪の神の世界。
人々が信仰した光の善神だけが神ではなかった。悪魔と呼ばれたそれもまた、神だったのだ。善と悪、それぞれに、それぞれの神がいた。それらの神に造られたからこそ、人間の世界には善と悪があったのだ。
形は同じでも、肉の躰を持たない存在。それが、自らの形に似せて、三次元の生命体である人間を創造した。創造には意味があった。三次元の生命体にしか成し得ないことが、たくさんあったからだ。
喜びも悲しみも、良い行いにも悪事にも、すべてに意味はあった。
魂は成長し、やがて彼らの世界へと還る。
更に、その先の世界のために。
━━ベータは嫌いだ。
この領域にもまた、意味はあるのかも知れないが。それでも、人々がただ殺し合う空間に、納得などできない。それが夜風の想いだ。
たとえ彼らが決して善い人間ではなかったのだとしても、見過ごすわけにはいかない。少なくとも、自分が見過ごせば、そこで終わりなのだという限りは。
もう、自分しかいないのだ。
その事実が、夜風をけして諦めさせない。
ここから先の未来で、自分が神になり新しい世界を作るかどうかはわからないけれど━━
今、目の前の地獄に在る人々の魂は、一人残らず全てを救う。
その一心で、地獄の空間を舞い続けた。
上も下もなく、幾重にも折り重なり崖の上を目指している。そんな混沌とした中にも人々の流れのようなものができることがあって、それが崖になった場所のあたりで、まるで肉の塔でも作っているかのように、人々が山となり積もっていく。すべての人間が裸体であり、あらゆる場所で殺害と同時にまぐわう男女の姿もあるが、最早それは人の行いではなく、かと言って獣のそれとも違うただ無意味なだけの肉の接触に過ぎなかった。誰もがみな声にならない声を上げ、言語をなくし肉を千切り合い喰い合って大きな流れを形成してゆく。
夜風はそんな人間の山に降り立つと、上から順番に、山を崩すようにして人間たちを破壊していった。
躰はいつまでも動き続けた。
疲労も空腹もない。
すでに人間でありながら、本来の領域を超越した夜風は神と呼ばれる者たちにより近い存在となっていた。
悪なる魂たちの撒き散らす血と肉から、皮膚を通してエネルギー体を吸収し、更なる力を得ていたのだが、夜風本人はそのことをわかってはいなかった。
しかし、理解はしていなくとも自分の躰が自在に動き、いつまでも動けることはわかっていた。それで充分だった。
止まれば肉の河に埋もれて流される。夜風の足が止まることはなかった。どころか、地に足がついている瞬間さえ、もうほとんどなかった。
空中を舞いながら。
下腹部と頭部と足と腹とが一つところに重なっていても、まとめてそれを八つ裂きにする。ぐちゃぐちゃに絡まり合いながら動く人間たちは魍魎の躰のように、全体で一つの生物と錯覚しそうにもなる。
頭から真っ二つに斬り。
二つの首を一振りで飛ばし。
繋がったままの男と女をまとめて貫き。
眼球に飛び込んだ血液も、夜風の目を潰すことはできなかった。
影響を受けない。
瞬時に分解されるのか、あるいは生身の人間のものではないからなのか。
見た目こそ血だるまそのものの様相であるが、臭い以外の影響はなかった。血液にも血肉にも温かさはなく、それだけが彼ら彼女らが生身の存在ではないことを示していた。
だからと言うわけではないが。
だからこそ。
夜風はその先のために、囚われた人々のために、一切の遠慮を捨てて一方的な虐殺を繰り返した。
朝も夜もなく。
時間すら忘れて。
否、すでに時という概念もそこにはなかった。
あるのはただ、殺す夜風と、殺される人間たちだけ。
それだけだ。
そして━━
途方もない時間をかけて。ベータの領域に囚われた人々の魂は、終にその全てが悪なる部分を切り離されて純粋なゼロの状態へと戻された。
善も悪もない。善でも、悪でもある、最初の魂に。
そして、それらの魂に行き場はなく、全員分が一つ残らず夜風の領域に留まっていた。
最終的に動く者のなくなったベータの領域は、集合した魍魎の核であったその世界ごと崩壊した。
なにもなくなった世界に、ただ一人、夜風だけが浮かんでいる。
はっきりと目には見えないが、無数の魂と共に。
微かに感じる、わずかな光のようなもので、その領域は埋め尽くされている。
なにもないが、すべてがあった。
そこがはじまりの場所だ。
星が生まれる。
元々、地球があったその場所に。
まったく同じ空間に、新しい惑星が生まれようとしていた。
『仕組みがある。それを理解させよう。組み立てろ、お前の思うように』
神ベータの声だ。
直後。夜風の意識が人間の領域を遥かに越えた先にある、神の世界にまで拡大した。今の夜風に脳はない。脳があっては、神の世界の理を知ることはできない。すでに本来の存在とは異なる者に変わっていた夜風に、神としての力が託された瞬間だった。
宇宙に、空間に、次元に、すべての━━人間の目にはけして見えない━━裏側に隠されていたコードが見える。
すべては計算され、組み立てられたものだった。宇宙空間も、世界すべて、自然と呼ばれた現象も。その裏側にはコードがある。人間にはけして見えず、想像できず、理解できないよう仕組まれていた。最初から、そうだった。すべての生物、無機物も、あらゆる現象や運命、誰にもわからないはずの未来も。あったはずの可能性も。変えられない過去も、前世も、来世も。人と人との関係も。そのすべてに。
世界を創造する。
同じ世界だ。
夜風が生きた世界と同じものを創造した。
生き物は変えた。
好きなものと嫌いなもの。危険なものとそうじゃないもの。少しだけ、私情を加えて。
だけれど、大まかには同じにした。それ以外の世界を作ろうとは思わなかった。
何故ならば夜風が"人間の神"だから。
人間の世界は、あの世界でなくては。少なくとも、あの世界を元にしたものでなくては、違うと思ったのだ。
どうなるかはわからない。
そもそもが━━元々悪なる魂に支配されていた者たちが始祖となるのだ。
ゼロの状態に戻ったとはいえ、その由来はなくならない。
それでも━━
新しい世界を始めようと決めた。
ここで終わりにするならば、自分が、自分だけが最後まで残り、神にまでなった意味がない。
その先が、まだあるならば。
進むべき道は残されている。
高次元の意識体に限りなく近い存在となっていた夜風は、まず、自らが人間へと戻ることからスタートした。
得た力と、世界の裏側が見え、それを構築できる能力はそのままに、肉の躰を取り戻すことを選んだ。
これには、ベータの作った別の生命体が協力してくれた。地球の人間とは違う、別の宇宙、別の惑星に創造された生命体たちである。
彼らの宇宙船と、その設備を利用して、夜風の受肉は完了した。
その後も生命体たちには協力してもらい、新しい世界、新しい惑星を作るまでを手伝ってもらった。
とは言え、ほとんどは夜風一人の力による作業が続く。
一通りの世界が出来上がり、惑星の準備が整ったところで、生命体たちの技術に頼ることとなる。
肉の躰を量産し、そこに、まだ夜風の領域にただ在るだけのゼロなる魂を宿すのだ。
ある程度の性格は、元々のものが引き継がれる。ただ、悪なる部分がなくなって、これから先、どのような性質を獲得するかは神のみぞ知る━━と、神である夜風自身が思い、ふふっと微笑する。
そう、創造主たる夜風にも、この先はわからない。すべてのコードを組み立てて、遥か未来までを見通しているにも関わらず、だ。
それが世界だ。
世界というものの、在る意味なのだ。
すべてが仕組まれているにも関わらず、どう転ぶのかがわからない。
人間は不思議だ。
世界を変える力がある。
そんな人間たちを見る。
まずは、数百人から、魂を込められた人間が誕生し、地上へと送られることになる。
まだ夜風の領域に留まっている魂たちは、それらの人間たちから生まれる子供の躰へと送り込まれることになる。それが、最初の人類だ。
「では、わたしは先に━━」
生命体のリーダーに告げ、神・夜風は彼女もまた一人の人間として、誰よりも早く新しい地上に降り立ち、続く人間を迎えた。
生命体の宇宙船から伸ばされたチューブが地表ギリギリまで近づくと━━その中を通って最初の人類が、次々に惑星へと送られてくる。
そんな彼ら、彼女らを神である夜風が歓迎した。
「わたしたちの世界へようこそ━━」と。
新しい世界が、そこから始まる。




