魍魎の惑星
外気圏を抜け宇宙空間へと到達した魍魎の先端は、そのまま暗黒の中を進んで行った。無限に増殖する細胞の、その部分だけを伸ばし、どこかへと向かっている。
それはまるで、肉の惑星と化した地球から伸びる一本の触手だった。
すでに魍魎以外の生物がなくなった星から、手を伸ばすように。
逃げ出すように。その一本だけが伸びている。
やがて月へと到達した魍魎の一部が、そこで止まった。伸び続けた動きがなくなり、ぴたりと静止した。先端が開く。口を開けるように、割れた中からなにかが落ちる。
人間だった。
鹿守夜風が、ほとんど無傷の状態で、月の表面まで運ばれてきたのだ。ややあって意識を取り戻した夜風が目を開ける。ゆっくりと立ち上がると、自分の現状を理解した。
━━宇宙空間。なのに、息ができるのはなぜ?
いや、呼吸などしていないのかも知れない。自分ではわからない。空気を吸っている自覚がないし、そもそもこの場所に酸素などあろうはずもない。でも、生きて立っている。どうやって躰を維持しているのか。それも半ば魍魎と化した自分の特性であるのか。
それよりも━━
地球は死んでしまった。それはもう、目の前、遥か遠くに見える景色が明確に示している。どす黒く蠢く肉の塊と化した、死の惑星。あんなところではもう、誰も、何者も存在することなどはできない。
《オマエガ サイゴニ エラバレタ》
頭の中に直接聞こえる、男とも女ともつかない声。音。発生源もわからない。正体の掴めないものが夜風の意識を引く。
暗黒の空間を見回すが、なにもない。
振り返っても、荒れた土地。岩が人の顔のようにも見えるが、それではない。
また地球のある方向に顔を向けたその時、わずかに先の空中に、何者かが浮いていた。
黒い影。
かろうじて人間のような姿の影が揺らめいているが、形が曖昧で、はっきりしない。
おそらく頭部があるであろう先端から、黒い小さな円柱状の粒子━━としか表現できないなにかが次々に現れ、すぐに消える。その粒子はずっと出続けている。他に特徴はなく、蜃気楼のような、あるいはそこに存在しない何かが、浮かんでいる。
夜風は身構えもしない。
もう、なにかと戦う意味もない。刀もなく、すでに命運は決した後だ。
そう思っていたから、動かなかった。
「なに?」話しかける。答えがあるとも思えなかったが、しかし返答はすぐにあった。
《ワタシ ワ β オマエタチ ヲ ツクッタ カミ ノ ヒトツ》
「ベータ……神?」
《チキュウトイウ ワクセイ ソコニイキル
スベテノセイブツ ト オマエタチ ニンゲン ヲ ソウゾウ シタ カミ》
声であり、声ではなく、言葉のようで、言葉ではない、音じゃなく、しかし音として聞こえるものが夜風の頭に、躯に響く。
《ワレ β ソシテ αトイウ カミガ ツクッタ━━ワレワレノ ナワ オマエタチニ リカイ ワ デキナイ ワレワレノ ソンザイ ワ オマエタチニ ワ ワカラナイ》
ふっ━━と、夜風の意識が飛んだ。
突然途切れた視界。だが、無意識の中では、まだはっきりとベータの言葉が聞こえていた。
さきほどよりも明瞭に、夜風の知っている言葉として、はっきりと。
《神アルファがお前たちを創造した時 我ベータも共に、お前たちを創造した。アルファのみが創造した場合、お前たちに『悪』の部分はなくなってしまう。それでは不完全だった。我ベータが在るからこそ、人間というものになる。善と悪、そのどちらも備わっていなくてはいけなかった。それにより、人間は生きられる。人間として存在し、文明を築き、成長する。善なる者だけの世界はなく、悪のみの世界もまた存在しない。しかし最後には、我ベータの領域が上回った。アルファが離れ、悪に傾いた結果、破滅の遺伝子が目覚め、人間の世界は終わりとなった。そして善なる魂はアルファの世界へ、悪なる魂は我ベータの領域に留まっている。地球であった場所が、今はそうなっているのだ。悪なる魂は永遠の苦しみの中で、死ぬこともなく血肉を食らい殺し合い、やがて我の世界へ堕ちてゆく》
世界が終わった━━
それも、悪に傾いて。
善なる魂はアルファという神の世界に還ったというが、悪なる魂はかつて地球だった、魍魎の肉塊の中に囚われている。
夜風は全てを理解した。
《お前が最後に選ばれた。最後の"人間"として、選べ。すべてを消し去り、終わりにするか。新しい世界を作り、やり直すのか》
イメージが流れ込む。
夜風の想像力を超えた、その先の世界。なにをどうすれば、どうなるのか。説明されるよりも明白に、すべてが理解できる。
どうするべきか、考える。
地球……いや、魍魎の世界となったベータの領域を消し去れば、それですべてが終わる。悪なる者たちの魂は消滅し、夜風自身の躰も消えて━━おそらくは、アルファの世界へ誘われる。しかしその場合、当然ながらベータの領域に囚われた悪なる魂の者たちは全員、完全にその存在が消滅する。救われることなく、だ。肉体の死よりも重要な、魂の消滅を果たす。それを、同じ人間であった自分が選ぶのか。選べるのか。果たして、そんな権利があるのだろうか?
新しい世界を作る━━これもまた、難しいだろう。善なる魂はなくなった。悪なる魂だけの世界では、やり直したところで同じことにしかならない。つまり、現状と大した差はないのではないか。
夜風の思考により、また新しいイメージが彼女の中に生まれる。
悪なる魂の者たちを斬殺し、解放する。
最後の願いが込められた夜風の刀によってのみ、それが可能になることを理解する。
ならば━━
意識を取り戻した夜風の右手には、霞屍と呼ばれた霊刀が握られていた。究極の霊力を宿したそれは、すでに刀であることすら超越し、高次元の物質と化している。
《お前が斬れば、悪なる魂も浄化される。消滅せず、善なる魂にもならないが、やり直すことはできる。我の領域を断ち切り、お前が新しい神となれ。ベータでもアルファでもなく、そのどちらの領域も内包した人間の神に。善と悪ではない。善悪を一にした存在を作り、新しい世界を創造せよ》
現生した人類は、それでも、善悪を一にした存在ではなかったということか。善と悪が確固として存在したものを超えた、新しい存在。善神と悪神ですら創造できなかった、完全なる一つの存在。それを、"人間"である夜風ならば作れるというのか。
いずれにしても。
そのためには、まず━━
「わたしが神になるかどうかはさておき━━」
魍魎の世界に囚われた人々を、その魂を解放しなくてはいけない。どんなに悪い人間たちだったとしても。囚われ、苦しんでいる魂がそこにあるのなら。
まだ、戦う理由は残されていた。
生きた人間はいなくなったが、それでもまだ、終わりではなかったのだ。
自分が生きている限り。
生きてまだここに、存在している限りは。
「できることはやる」
霊的な力を覚醒させた夜風の躰は、魍魎の惑星へと向かい飛翔した。




